L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(11) オットー・フリッシュさん

前回からの続き。

マイトナーさん(26才)がウィーン大学の博士課程の学生だったときに姉夫婦の息子としてオットー・フリッシュさんが誕生。
1938年、ナチスのためカイザー・ヴィルヘルム研究所にいられなくなり、ベルリンを脱出、スウェーデンのストックホルムに逃れる。荷物もなくベルリンを出たのでしばらくホテル暮らし。その後、姉夫婦のもとに身を寄せる。

フリッシュさんのご専門は?
マイトナーさんと同じ核物理学。理論と実験によって核爆弾の製造が現実的に可能であることを示した。

どんな関係?
マイトナーさんの姉がフリッシュさんの母親。叔母・甥の関係。ピアノ演奏も一緒に楽しむ。82才で引退したマイトナーさんが終の棲家に選んだのはフリッシュさん住まいの近所だった。

どんな人生?
1938年、オットー・ハーンさん(8月24日)とフリッツ・シュトラスマンさん(9月12日)がマイトナーさんに宛てた手紙(ウランに中性子を衝突させる実験結果についての謎)を一緒に読み、核分裂が起きていることを発見。
イギリスでルドルフ・パイエルス氏と核分裂の研究を行い、ウランを使った原子爆弾の実現可能性を文書にして政府に提出。イギリスでは原子爆弾製造計画(チューブ・アロイズ)、アメリカではマンハッタン計画となって現実化する。
第二次大戦後はケンブリッジで過ごす。

オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch 1904-1979 物理学者
1904年、ウィーン生まれ。ユダヤ人。父は画家、母はマイトナーさんの姉でコンサート・ピアニスト。
1914年(10才)WWI
1918年(14才)WWI終戦
教育
1922年(18才)ウィーン大学に入学。専攻を数学から物理学に変更。
1926年(22才)ウィーン大学で博士。
活動
1927年(23才)ドイツの研究所で仕事。カイザー・ヴィルヘルム研究所の幹部・ベルリン大学教授になっていたマイトナーさん(49才)を訪ね、2人でピアノを弾いたりコンサートに出かけたりした。
1930年(26才)ハンブルグ大学オットー・シュテルン先生の下で研究。シュテルン先生は1943年にノーベル物理学賞をとる。
1933年(29才)ヒトラー政権になる。シュテルン先生の紹介でロンドン大学バークベック・カレッジへ。
1934年(30才)デンマークのコペンハーゲンでニールス・ボーアさんと中性子の研究。
1938年(34才)休暇を使いスウェーデンにいたマイトナーさんを訪問。ちょうどオットー・ハーンさんの手紙からウラニウムの核分裂を発見。「ウランの原子核に中性子を衝突させるとバリウムが生まれた。理由が分からない」という内容。ここから核分裂の概念を発見。
1939年(35才)WWII。バーミンガム訪問中、開戦。現地に留まり物理学者のルドルフ・パイエルス氏と核分裂の共同研究。原爆の可能性を書いたフリッシュ=パイエルスの覚書を政府に提出。
1943年(39才)覚書がイギリスの原子爆弾製造計画とアメリカのマンハッタン計画の基礎になる。渡米しロスアラモス国立研究所へ。
1944年(40才)ロスアラモス研究所で実験。広島に投下する原子爆弾リトルボーイに必要なウランの量を決定。
1945年(41才)WWII終戦
1946年(42才)イギリスに戻り原子力エネルギー研究機構の核物理部門長。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのジャクソン教授職・フェロー。30年間在職。
1960年(56才)マイトナーさん(82才)がケンブリッジにあるフリッシュの家の近くに転居。
1968年(64才)マイトナーさんが死去(89才)。
1972年(68才)ケンブリッジ大学を退職。
1979年(75才)死去。

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