リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(66)日本の現代物理学の父:仁科芳雄さん

▼仁科さんはオーア・ボーアさんにとってのUncle Nishina、ニールス・ボーアさんの気の合う共同研究者、朝永振一郎さんを理研に呼んだ日本の原子物理学者。
▼ローレンスさんが大型サイクロトロンを建設するとき必要な大型磁石を米軍の廃棄場で見つけたニュースを知り、仁科さんは一緒に購入。カリフォルニア大学以外でサイクロトロンが建造される第一号になる。
▼日本で原子物理学の研究を進めて知見を持っていたので、米軍が広島・長崎に落とした新型爆弾が原爆であることをすぐに解析。
▼前回の朝永さんと同じく、フリッシュさんの自伝には登場していないけれど、ニールス・ボーアさんを介してつながりがあるので紹介した。

仁科 芳雄 Nishina Yoshio 1890-1951
1890年、岡山県生まれ。
教育
新庄尋常小学校。
生石高等小学校。
1905年(15才)岡山県立岡山中学校入学。
1910年(20才)岡山中学校を首席で卒業。旧制第六高等学校工科に入学。
1914年(24才)WWI。六高を首席で卒業。東京帝國大学工学部電気工学科に入学。
1918年(28才)WWI終戦。東大工学部を首席で卒業。大学院に進学。同時に理化学研究所の研究生。
1920年(30才)理化学研究所で研究員補。
1921年(31才)海外留学。ケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所(1922年まで)。
1922年(32才)ゲッチンゲン大学(1923年まで)。
1923年(33才)コペンハーゲン大学ボーア研究室(1928年まで)。
1925年(35才)ボーア研究室で木村健二郎さん(ヘヴェシーさんの指導を受けた化学者)と共同研究。
1928年(38才)オスカル・クラインさんとクライン=仁科の公式を発表。
1929年(39才)帰国。理研の長岡半太郎研究室に所属。ハイゼンベルクさんとディラックさんを日本に招く。
1930年(40才)東京大学で博士(理学)。
活動
1931年(41才)理研で仁科研究室を開く。量子論、原子核、放射線生物学、宇宙線の研究。京都大学で出張講演、出会った朝永さんを理研に誘う。
1935年(45才)三井報恩会、東京電燈株式会社、日本無線電信株式会社等から寄付を得て原子核実験室を設置。
1937年(47才)日本初の小型サイクロトロン(26~27インチ)を完成。ニールス・ボーアさんが来日、理研を訪問。
1938年(48才)60インチの大サイクロトロン建設のためカリフォルニア大学のローレンスさんと共同でアメリカの海軍工廠の大型磁石を購入。
1939年(49才)WWII。大サイクロトロンが完成するも期待する性能が出ず。弟子が渡米しカリフォルニア大学で調査。ローレンスさんに会えず。帰国後、原因は真空度の不足と判明。
1940年(50才)陸軍が核分裂に関心を持ち研究を依頼。
1941年(51才)原子爆弾の理論的可能性を検討。
1943年(53才)大サイクロトロンの調整が進む。原子爆弾の製造可能性を陸軍に報告。
1945年(55才)WWII終戦。広島と長崎に投下された爆弾が原爆であることを確認。軍事利用と判断した米軍の指示で大サイクロトロンと小サイクロトロンは共に海洋投棄処分。
1946年(56才)理研で所長(1948年まで)。文化勲章授与。
1948年(58才)理研解散。科研製薬株式会社が設立、社長に就任。
1951年(61才)東京で死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
□ 長岡 半太郎 Nagaoka Hantaro 1865-1950 物理学者。
弟子
□ 嵯峨根 遼吉 Sagene Ryokichi 1905-1969 物理学者。長岡半太郎の五男。
□ 坂田 昌一 Sakata Shoichi 1911-1970 物理学者。
□ 田島 英三 Tajima Eizo 1913-1998 物理学者。
□ 南部 陽一郎 Nanbu Yoichiro 1921-2015 2008年にノーベル物理学賞を受賞(自発的対称性の破れの発見)。
関係筋
■ ニールス・ボーア Niels Bohr 1885-1962
□ オスカル・クライン Oskar Klein 1894-1977 スウェーデンの物理学者。
□ 木村 健二郎 Kimura Kenjiro 1896-1988 分析化学者。
■ アーネスト・ローレンス Ernest Lawrence 1901-1958
■ ヴェルナー・ハイゼンベルク Werner Heisenberg 1901-1976
■ ポール・ディラック Paul Dirac 1902-1984
■ 朝永 振一郎 Tomonaga Shinichiro 1906-1979
■ 湯川 秀樹 Yukawa Hideki 1907-1981
■ オーア・ボーア Aage Bohr 1922-2009 オーアさんにとってNishinaおじさん。

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E7%A7%91%E8%8A%B3%E9%9B%84
https://en.wikipedia.org/wiki/Yoshio_Nishina

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(65)量子論を発展「場の量子論」を構築した物理学者:朝永振一郎さん

▼フリッシュさんの自伝に朝永振一郎さんは出てこない。けれど、湯川秀樹さんの同級生で理論物理学者でノーベル物理学賞の受賞者なので、今回、ご紹介する。
▼30代のときハイゼンベルクさんと原子核物理を研究し、40代のときオッペンハイマーさんの招きでプリンストン高等研究所に滞在。59才でノーベル物理学賞を受賞。
▼物理学は実験・観察・測定技術の発達と現象を説明する理論の両輪で物質の成り立ちを探求してきた。朝永さんは「場の量子論」で成り立ち探求の前線を進めた科学者。

朝永 振一郎 Tomonaga Shinichiro 1906-1979
1906年、文京区小日向生まれ。父は哲学者。
教育
1913年(7才)父が京都帝国大学の助教授から教授になったので一家で京都に転居。錦林小学校に入学。
1914年(8才)WWI
1918年(12才)WWI終戦
1923年(17才)京都府立洛北高等学校・附属中学校卒業。
1926年(20才)第三高等学校卒業。京都帝国大学理学部入学。
1929年(23才)京都帝国大学理学部物理学科卒業。京都帝国大学で無給の副手。
活動
1931年(25才)理化学研究所の仁科研究室で研究員。
1937年(31才)ライプツィヒ大学に留学(1939年まで)。ハイゼンベルクさんの研究室に所属、原子核物理学や場の量子論を研究。
1939年(33才)帰国。東京帝国大学で博士(理学)。WWII。マグネトロンや立体回路を研究。
1940年(34才)結婚。
1941年(35才)筑波大学(当時、東京文理科大学)で教授。
1942年(36才)中間子の中間結合論(場の理論)を発表。
1943年(37才)超多時間理論を発表。
1945年(39才)WWII終戦
1947年(41才)くりこみ理論を発表。
1948年(42才)日本学士院賞を受賞(磁電管の発振機構と立体回路の理論的研究)。小谷正雄さんと共同受賞。
1949年(43才)オッペンハイマーさんの招きでIASプリンストン高等研究所に留学(1950年まで)。量子多体系の研究。『量子力学』発刊。
1953年(47才)中間結合の体系理論を発表。
1954年(48才)ディラックさんの『量子力学』を翻訳・出版。
1955年(49才)東京大学で原子核研究所を設立。
1956年(50才)東京教育大学で学長(1961年まで)
1963年(57才)日本学術会議で会長(1969年まで)
1965年(59才)ノーベル物理学賞受賞(量子電気力学分野での基礎的研究)。ジュリアン・シュウィンガーさん、ファインマンさんと共同受賞。
1969年(63才)東京教育大学を退任。
1974年(68才)『スピンはめぐる 成熟期の量子力学』発刊。
1979年(73才)『物理学とは何だろうか』発刊。死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
□ 仁科 芳雄 Nishina Yoshio 1890-1951 ボーア研究所に留学した物理学者。理化学研究所時代の上司。
■ ヴェルナー・ハイゼンベルク Werner Heisenberg 1901-1976 留学先。
□ 岡 潔 1901-1978 数学者。
弟子
□ 早川 幸男 Hayakawa Sachio 1923-1992 宇宙物理学者。
関係筋
■ アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein 1879-1955
■ ニールス・ボーア Niels Bohr 1885-1962
■ ポール・ディラック Paul Dirac 1902-1984
■ ロバート・オッペンハイマー Robert Oppenheimer 1904-1967
□ 小谷 正雄 Kotani Masao 1906-1993 分子物理学者。
■ 湯川 秀樹 Yukawa Hideki 1907-1981 同級生。
■ リチャード・ファインマン Richard Feynman 1918-1988
□ ジュリアン・シュウィンガー Julian Schwinger 1918-1994 アメリカの理論物理学者。

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%B0%B8%E6%8C%AF%E4%B8%80%E9%83%8E
https://en.wikipedia.org/wiki/Shin%27ichir%C5%8D_Tomonaga

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(64)原子核を形作る新メンバーを予測:湯川秀樹さん

▼ローレンスさん、リビングストンさんが発明したサイクロトロンがどんどん強化され原子核の研究が進んだ。すると新しい粒子が確認された。
▼フリッシュさんの自伝では「この発見は、それほど思いがけないものではなかった。早くも1935年に、日本の理論物理学者の湯川秀樹は、光子が電磁気力に関連する量子であるように、核力に関連する量子があるはずだと予言していた」(p.230)
▼「本物の湯川メゾンは、現在ではパイメゾンまたは短くパイオンと呼ばれており(中略)、湯川の予想に近い質量を持つことが明らかになった」(p.230)
▼フリッシュさんの自伝で湯川さんが登場する章では、理論物理学と実験物理学の進展のおかげで原子核を構成する新たな顔ぶれが増える様子が述べられる。おなじみの古典的な原子モデルは、原子核は、陽子と中性子、その周りを電子が回転しているというものだ。そこから次の一歩二歩と進む話だ。
▼理解が難しいので、方向を変え、難しい理由を考えてみた。すぐ出てくる理由は次だ。
・これ以上分けられない素と思っていた電子と陽子が、サイクロトロンの威力でどんどん分けられ、ぜんぜん素じゃなくなった~それは良いとして、電子と陽子に変わる新しいモデルがイメージしにくい点。
・固定的に捉えられない点、なんというか、ひょうたんでナマズを捉える的なところ~状態が変わる(例、エネルギーが高くなる)と振る舞いが変わり、それまでなかった現象が起こる。
・線香花火で飛び出た火が一瞬複雑な振る舞いをするのを捉えるような難しさ~「パイオンは放射性であり、数ナノ秒でミュオンに変わる。ミュオンもまた放射性であり、平均寿命2マイクロ秒で破裂して電子と二個のニュートロンに変わる」(p.231)
・あと、名前がいっぱい出てきて混乱する。
・そもそも、素なんて、あるのだろうか。人間の測定・観察で小さいとか大きいとか言ってるだけで、果てしないのではないだろうか。

湯川秀樹 Yukawa Hideki 1907-1981
1907年、六本木生まれ。父・小川琢治は地質学者。
教育
1908年(1才)父が京都帝国大学の教授になったので一家で京都に転居。
1914年(7才)WWI
1918年(11才)WWI終戦
1919年(12才)京極尋常小学校卒業。京都府立京都第一中学校入学。
1929年(22才)京都帝国大学理学部物理学科卒業。玉城嘉十郎研究室で副手。
1932年(25才)結婚、湯川家の婿養子。小川から湯川に姓が変わる。京都帝国大学で講師。
1933年(26才)大阪帝国大学でも講師(兼任)。
1934年(27才)中間子理論を発表。
1935年(28才) 「素粒子の相互作用について」を発表。中間子の存在を予言。
1938年(31才)大阪帝国大学で博士(理学)。「On the interaction of elementary particles(素粒子の相互作用に就て)」
活動
1939年(32才)京都帝国大学で教授。WWII
1942年(35才)東京帝国大学理学部で教授。
1943年(36才)文化勲章受章(最年少)。
1945年(38才)WWII終戦
1946年(39才)帝国学士院会員。
1948年(41才)IASプリンストン高等研究所で客員教授。
1949年(42才)コロンビア大学で客員教授。ノーベル物理学賞受賞(陽子と中性子との間に作用する核力を媒介するものとして中間子の存在を予想)。
1955年(48才)日本物理学会会長(1956年まで)。ラッセル=アインシュタイン宣言に署名。
1956年(49才)原子力委員会委員(1957年まで)。
1958年(51才)原子力委員会参与。
1963年(56才)ロンドン王立協会外国人会員。
1970年(63才)京都大学退任、名誉教授。
1981年(74才)京都で死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
□ 八木 秀次 1886-1976 電気工学者。八木アンテナの発明者。
□ 岡 潔 1901-1978 数学者。
関係筋
■ アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein 1879-1955
■ マックス・ボルン Max Born 1882-1970
■ ニールス・ボーア Niels Bohr 1885-1962
■ ヴェルナー・ハイゼンベルク Werner Heisenberg 1901-1976
□ 朝永 振一郎 1906-1979 物理学者。同期。

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%B7%9D%E7%A7%80%E6%A8%B9

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(63)サイクロトロンの共同発明者:M・リビングストンさん

▼リビングストンさんについて、フリッシュさんの自伝では「全ては1930年代初めに、カリフォルニアのバークレーで、アーネスト・O・ローレンスとM・スタンレー・リビングストンが発明したサイクロトロンの建設から始まった」(p.228)と紹介されている。
▼「ローレンスとリビングストンの基本的な考えは、粒子を超高電圧により一回で強く加速するのではなく、小さい加速を数多く繰り返すことであった」(p.228)
▼リビングストンさんは30才を前にしてローレンスさんから独立し、バークレー校以外の場所でサイクロトロンを建設する。
▼ローレンスさんとリビングストンさんの関係は、師匠と弟子のあり方を考えさせられる例である。

ミルトン・リビングストン Milton Livingston 1905–1986
1905年、ウィスコンシン州ブロードヘッド生まれ。父は高校の教師。
教育
1910年(5才)一家でカリフォルニア州に転居。
1914年(9才)WWI
1917年(12才)母が死去。
1918年(13才)WWI終戦
1921年(16才)高校を卒業。Pomona Collegeに入学。化学と物理を学ぶ。
1926年(21才)Pomona CollegeでBA(化学と物理)。ダートマス大学入学。
1928年(23才)ダートマス大学でMA。X線回折を研究。
活動
1929年(24才)ダートマス大学でインストラクター。
1930年(25才)カリフォルニア大学バークレー校入学。結婚。
1931年(26才)カリフォルニア大学バークレー校でPhD(指導教員はローレンス先生)。
1932年(27才)27インチ(69cm)のサイクロトロン建設に着手。WWIで使用して廃棄物になっていた80トンの磁石を使用。
1934年(29才)10本以上の論文を提出。ローレンスさんから独立するためコーネル大学で助教授。バークレー校以外で初めてサイクロトロン建設。
Robert Bacherさん、ベーテさんとの共同作業を通して物理学の神髄を知る。
1938年(33才)MITで42インチのサイクロトロン建設に協力。
1939年(34才)MITで講師。WWII。ローレンス先生がノーベル物理学賞を受賞。
1940年(35才)MITで准教授。MITのサイクロトロンが完成、OSRDに協力。
1944年(39才)海軍研究事務所Office of Naval Researchで Philip MorseさんのORグループに所属。
1945年(40才)WWII終戦
1946年(41才)ブルックヘブン国立研究所でMorseさんが初代所長。Morseさんからビッグサイエンスの象徴となるシンクロトロンの建造計画担当に指名。
1948年(43才)シンクロトロン建造計画は縮小されコスモトロンになる。
1952年(47才)再婚。
1959年(54才)再再婚。
1967年(62才)フェルミ国立加速器研究所で副所長。大型粒子加速器テバトロン建造を計画。
1970年(65才)引退。
1986年(81才)サンタフェで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
■ アーネスト・ローレンス Ernest Lawrence 1901-1958
関係筋
□ Philip Morse 1903–1985 アメリカの物理学者。ORのパイオニア。
□ Robert Bacher 1905–2004 アメリカの核物理学者。
■ ハンス・ベーテ Hans Bethe 1906-2005

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://en.wikipedia.org/wiki/M._Stanley_Livingston

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(62)サイクロトロンの発明者:E・ローレンスさん

▼ローレンスさんのサイクロトロン登場の前と後で物理学の研究スタイルが変わる。資金、人的・設備的規模が大きくなった。
▼サイクロトロンは、原子核を壊すために粒子を当てる装置。フリッシュさんの自伝では「超高電圧により一回で強く加速するのではなく、小さい加速を数多く繰り返す」
▼その目的は「原子の破壊ではなく、核子どうしがお互いに作用する力に光を当てること」(p.229)。
▼小屋や実験室で行う実験で新発見があった時代が終わり、「何千トンもの鋼と銅から作られる、まさに文字通りの戦艦、巨大な粒子加速器」(p.228)が必要になる。元素周期表に出る新しい元素の発見にはこうした装置があってこそ。

アーネスト・ローレンス Ernest Lawrence 1901-1958
1901年、サウスダコタ州リンカーン郡カントン生まれ。父は教師。
教育
1914年(13才)WWI。ノルウェー移民の友達マール・チューヴさんと無線機を組み立てる。
1918年(17才)WWI終戦。カントン高等学校を卒業。セントオラフ大学に入学。
1919年(18才)サウスダコタ大学に転学。
1922年(21才)サウスダコタ大学でBS(化学)。
1923年(22才)ミネソタ大学でM.A.(物理学)。指導教員はWilliam Swannさん。
Swann先生についてシカゴ大学へ。
1925年(24才)イェール大学でPh.D.(物理学)。指導教員はWilliam Swannさん。
奨学金を得てSwann先生の研究助手。Jesse Beamsさんと光電効果を共同研究。
活動
1928年(27才)カリフォルニア大学で准教授(物理学)。
1929年(28才)図書館の雑誌からサイクロトロンの着想を得る。
1930年(29才)カリフォルニア大学で最年少の教授(物理学)。
1931年(30才)博士課程の学生リビングストンさんが11インチのサイクロトロンの組立と稼働に成功(学位取得)。
1932年(31才)結婚。リビングストンさんと27インチのサイクロトロンの組立。
1933年(32才)コッククロフトさんの紹介でソルベー会議に出席、サイクロトロンについて説明。
1934年(33才)サイクロトロンの特許を取得。
1936年(35才)カリフォルニア大学バークレー校で放射線研究所所長。
1937年(36才)37インチのサイクロトロンを建造。医療向け用途開発も進める。テクネチウム発見。
1939年(38才)WWII。60インチのサイクロトロンを建造。ノーベル物理学賞を受賞(サイクロトロンの開発および人工放射性元素の研究)。マンハッタン計画に参加。
1940年(39才)コンプトンさん、ブッシュさん、James B. Conantさん、Karl T. Comptonさん、Alfred Lee Loomisさんがバークレーに集まり184インチのサイクロトロンを建造について協議。ロックフェラー奨学金が出て建造開始。
1943年(42才)大型電磁石の装置Alpha IIを建造。
1945年(44才)トリニティ実験に参加。WWII終戦。Alpha III建造は中止。
1947年(46才)陽子加速の大型装置ベバトロン計画。
1948年(47才)ベバトロン稼働。
1951年(50才)カラーテレビ用真空管を開発。
1957年(56才)エンリコ・フェルミ賞を受賞。
1958年(57才)カリフォルニア州パロアルトで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
□ William Swann 1884–1962 物理学者。
弟子
□ ミルトン・リビングストン Milton Livingston 1905–1986
関係筋
□ Jesse Beams 1898–1977 物理学者。イェール大学時代の共同研究者。
□ マール・チューヴ Merle Tuve 1901–1982 地球物理学者。電子工作を共にした幼馴染。
□ エドウィン・マクミラン Edwin McMillan 1907-1991 アメリカの物理学者・化学者。

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(61)液滴モデルと殻モデルを融合したノーベル物理学賞物理学者:J・レインウォーターさん

▼フリッシュさんの自伝ではレインウォーターさんへの言及はない。オーア・ボーアさんとモッテルソンさんが1975年にノーベル物理学賞を受賞したときの共同受賞者なので取り上げた。
▼オーアさんとレインウォーターさんの出会いはオーアさんがコロンビア大学に来ていた1949-50年の時期。二人は同じ部屋を共有していたこともあり、共同して原子核の姿を探求した。オーアさんはニールスボーア研究所に戻るとモッテルソンさんと研究を継続し、ノーベル物理学賞を受賞する集団運動模型の提唱に至る。WWIIの後、原子モデルを追求する段階から原子核のモデルを追求する段階に移った。

ジェームス・レインウォーター James Rainwater 1917-1986
1917年、アイダホ州カウンシル生まれ。父は雑貨店を営む土木技術者。
教育
1918年(1才)WWI終戦。父がスペインかぜで死去。母とカリフォルニア州ハンフォードに転居。
高校時代、数学・化学・物理に秀でる。
1939年(22才)WWII。カリフォルニア工科大学でBS(物理学)。コロンビア大学大学院に入学。
ラビさん、フェルミさん、テラーさん、John R. Dunningさんの下で学ぶ。Dunningさんはコロンビア大学で初めてのサイクロトロンをPupin物理学研究所の地下室に建設。
1941年(24才)カリフォルニア工科大学でMS。
1942年(25才)結婚。マンハッタン計画に参加。
1945年(28才)WWII終戦
1946年(29才)コロンビア大学でPh.D.(指導教員はJohn Dunningさん)。
活動
1948年(31才)コロンビア大学で講師。オーア・ボーアさんと John Wheelerさんが原子核の液滴モデルを使って核分裂理論を発展。
1949年(32才)マリア・ゲッパート・メイヤーさんが殻モデルを提唱し液滴モデルを更新。Charles H. Townesさんが実験結果を報告。そこから液滴モデルと殻モデルは対立するものではなく、全ての原子核が球状というわけではない、と主張。
1950年(33才)オーア・ボーアさんと共同研究。海軍研究事務所の資金を得てコロンビア大学ネイビス研究所にシンクロトロンを建設。
1951年(34才)ネイビス研究所で所長(1954年まで)。
1952年(35才)コロンビア大学で教授
1957年(40才)ネイビス研究所で所長(1961年まで)。
1963年(46才)アーネスト・ローレンス賞受賞(マンハッタン計画への貢献)。
1975年(58才)ノーベル物理学賞をオーアさん、モッテルソンさんと共同で受賞(集団運動模型の提唱)。
1983年(66才)コロンビ大学でRobert R. Wilsonさんの後任のPupin教授職。
1986年(69才)コロンビア大学で名誉教授。NYで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
■ イジドール・ラービ Isidor Rabi 1898-1988
■ エンリコ・フェルミ Enrico Fermi 1901–1954
□ John Ray Dunning 1907–1975
■ エドワード・テラー Edward Teller 1908-2003
弟子
□ Val Fitch 1923–2015 アメリカの原子核物理学者。
関係筋
□ John Wheeler 1911–2008 アメリカの物理学者。
□ Chien-Shiung Wu 1912–1997 中国系アメリカの実験物理学者。コロンビア大学でマンハッタン計画に参加していた時期の同僚。
□ Charles Townes 1915–2015 アメリカの物理学者。
□ William Havens 1920–2004 アメリカの物理学者。コロンビア大学でマンハッタン計画に参加していた時期の同僚。
■ オーア・ボーア Aage Bohr 1922-2009
■ ベン・モッテルソン Ben Mottelson 1926-

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
https://en.wikipedia.org/wiki/James_Rainwater

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(60)オーア・ボーアさんとの共同研究でノーベル物理学賞を受賞:B・モッテルソンさん

▼フリッシュさんの自伝でモッテルソンさんは「オーアとモッテルソンの共同作業は四半世紀に渡って続き、原子核の挙動の多くを詳細に説明し」た(p.227)と紹介されている。
▼モッテルソンさんはドクターを取得したあとハーバード大の奨学金を得てニールス・ボーア研究所でポスドク修行を行う。世界中から優れた科学者が集まり、オープンに情報交換する環境がフィットし、以後、コペンハーゲンを拠点にする。

ベン・モッテルソン Ben Mottelson 1926-
1926年、イリノイ州シカゴ生まれ。父は技術者。
教育
1939年(13才)WWII
戦争中に地元の高校を卒業。アメリカ海軍に所属し将校訓練のためパデュー大学に入学。
1945年(19才)WWII終戦
1947年(21才)パデュー大学でB.S.
1948年(22才)結婚。
1950年(24才)ハーバード大学でPh.D.(指導教員はジュリアン・シュウィンガーさん)。
活動
1950年(24才)奨学金を得てニールス・ボーア研究所でポスドク(1951年まで)。オーアさんと原子核の集団運動の研究を開始。オーアさんとレインウォーターさんが原子核モデルを開発(1951年まで)。
1952年(26才)U.S. Atomic Energy Commissionの奨学金を得て引き続きニールス・ボーア研究所に所属。オーアさんと原子核の理論モデルと実験値の比較研究(1953年まで)。
1953年(27才)コペンハーゲンでCERNの理論研究グループに所属。「殻模型によって記述される核子の独立粒子運動」と「液滴模型によって記述される核子の集団運動」を統一的に記述する集団運動模型を発表。
1957年(31才)Nordic Institute for Theoretical Physics (Nordita)で教授。ジョン・バーディーンさん、レオン・クーパーさん、ジョン・シュリーファーさんが超伝導を説明するBCS理論を発表。
1958年(32才)原子核での超流動状態を発見。「有限量子多体系としての原子核」概念を提唱。
1959年(33才)カリフォルニア大学バークレー校で客員教授(春学期)。
1969年(43才)オーアさんと共著でNuclear Structure Vol.1を発表。核構造物理学の教科書。
1971年(45才)デンマークに帰化。
1975年(49才)オーアさんと共著でNuclear Structure Vol.2を発表。
ノーベル物理学賞をオーアさん、レインウォーターさんと共同で受賞(集団運動模型の提唱)。
1983年(57才)再婚。
1993年(67才)European Centre for Theoretical Studies in Nuclear Physics and Related Areas (ECT)で所長(1997年まで)。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
□ ジュリアン・シュウィンガー Julian Schwinger 1918-1994 アメリカの理論物理学者。1965年、ノーベル物理学賞を朝永振一郎さん、ファインマンさんと共同受賞。
関係筋
□ ジェームス・レインウォーター James Rainwater 1917-1986
■ リチャード・ファインマン Richard Feynman 1918-1988
■ オーア・ボーア Aage Bohr 1922-2009

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Ben_Roy_Mottelson
https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1975/mottelson/biographical/

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(59)親子でノーベル物理学賞を受賞:A・ボーアさん

▼原子核の姿を追求していたニールス・ボーアさんは「原子核は水滴に似ている」(p.226)とした。次に原子核の殻モデルがこれまで数回にわたって紹介した物理学者に提唱された。「それでも液滴モデルが死んだ訳ではない。優雅にダンスを踊っているような核子ではなく、ひしめき合う群衆のように振る舞う核子を伴っている。(中略)それを『集団モデル(ゆらゆらと回転する水滴の軌道を回る核子の量子力学的な記述)』として完成させたのは、ニールス・ボーアの息子で後継者でもあるオーアとベン・モッテルソンであった」(p.227)
▼名前の読み方について、「Aageと綴るが、Saw aと同じ音である。gの音は聞こえない」(p.227)とある。Wikipediaでは「オーゲ」と表記されている。

オーア・ボーア Aage Bohr 1922-2009
1922年、コペンハーゲン生まれ。父はニールス・ボーアさん。
教育
一家の住まいは理論物理学研究所(後のニールス・ボーア研究所)。父の元に集まる著名な学者の中で育つ。オーアさんにとっては「パウリおじさん」「ハイゼンベルクおじさん」。
1932年(10才)一家でカールスブルグの屋敷に転居。
1934年(12才)ギムナジウムに入学。父の仕事の手伝いを始める。
1939年(17才)WWII
1940年(18才)コペンハーゲン大学に入学。物理学を学ぶ。ドイツ軍がデンマーク侵攻。
活動
1943年(21才)父がナチスに逮捕されかけたためスウェーデン経由でイギリスに脱出、続いて合流。イギリスの原爆計画Tube Alloysに参加。
1944年(22才)父の原子力エネルギーの研究の手伝いのためロンドン、ワシントン、ロスアラモス研究所に同行。アメリカではマンハッタン計画に参加。
1945年(23才)WWII終戦。デンマークに戻る。
1946年(24才)デンマーク大学でMS。
1948年(26才)プリンストン高等研究所IASのメンバーになって訪米。コロンビア大学でイジドール・ラービさんと知り合う。
1949年(27才)コロンビア大学物理学科長のラービさんの下で共同研究(1950年まで)。レインウォーターさんと原子の液滴モデルについてディスカッション。
1950年(28才)NYで結婚。ニールスボーア研究所に戻りベン・ロイ・モッテルソンさんと原子核の集団運動について共同研究開始。
1954年(32才)コペンハーゲン大学でPh.D. 研究助手。
1956年(34才)コペンハーゲン大学で教授(物理学)。
1962年(40才)父が死去。ニールスボーア研究所の後任所長(1970年まで)。
1969年(47才)原子核の集団運動の研究成果をVolume I (Single-Particle Motion)として発表。
1972年(50才)ラザフォードメダル賞を受賞。
1975年(53才)原子核の集団運動の研究成果のVolume II (Nuclear Deformations) を発表。
1975年(53才)ノーベル物理学賞をモッテルソンさん、レインウォーターさんと共同で受賞(集団運動模型の提唱)。
2009年(87才)コペンハーゲンで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
■ ニールス・ボーア Niels Bohr 1885-1962
関係筋
□ 仁科 芳雄 Yoshio Nishina 1890–1951 日本の物理学者。オーアさんの子供時代「Nishinaおじさん」
□ ハンス・クラマース Hans Kramers 1894–1952 オランダの物理学者。オーアさんの子供時代「クラマースおじさん」
□ オスカー・クライン Oskar Klein 1894–1977 スウェーデンの理論物理学者。オーアさんの子供時代「クラインおじさん」
■ イジドール・ラービ Isidor Rabi 1898-1988 1944年にノーベル物理学賞(共鳴法による原子核の磁気モーメントの測定法の発見)を受賞した物理学者。
□ ベン・ロイ・モッテルソン Ben Roy Mottelson 1926- アメリカの理論物理学者。
■ ヴォルフガング・パウリ Wolfgang Pauli 1900-1958 オーアさんの子供時代「パウリおじさん」
■ ヴェルナー・ハイゼンベルク Werner Heisenberg 1901-1976 オーアさんの子供時代「ハイゼンベルクおじさん」
□ ジェームス・レインウォーター James Rainwater 1917–1986 アメリカの物理学者。1975年にノーベル物理学賞を受賞。

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A2
https://en.wikipedia.org/wiki/Aage_Bohr
https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1975/bohr/biographical/

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(58)原子核の殻構造モデルの「魔法の数」を発展させた:O・ハクセルさん

▼フリッシュさんの自伝では、原子核の殻構造モデルを考案した研究者の一人としてH・ジャンセンさん、H・スエスさんと共に紹介されている科学者。
▼ハクセルさんを調べて印象に残ったのは、師匠がガイガーカウンターで有名なガイガーさんだったこと、WWIIの時期、ドイツ海軍で働いたとき上司が元Uボートの艦長だったこと、戦後はハイゼンベルクさんの助手につけたことから、ハクセルさんも豊かな人間関係の中でWWIIの前後を生き延びた科学者の一人だったこと。

オットー・ハクセル Otto Haxel 1909–1998
1909年、ドイツのババリア生まれ。
教育
1914年(5才)WWI
1918年(9才)WWI終戦
1927年(18才)ミュンヘン工科大学とテュービンゲン大学で学ぶ(1933年まで)
1933年(24才)テュービンゲン大学で博士(指導教員はハンス・ガイガーさん)。ガイガーさんの助手。
1936年(27才)教授資格を取得。
活動
1936年(27才)ガイガ@さんがベルリン工科大学でグスタフ・ヘルツさんの後任教授、学部長に就任。同行しベルリン工科大学でTA(1939年まで)。
1939年(30才)WWII。ベルリン工科大学で講師。
1940年(31才)ドイツの核エネルギー研究(ウラニウム・クラブ)に従事。
1942年(33才)徴兵されUボートの元艦長Admiral Rheinさんの下でドイツ海軍の原子力研究に従事。
1945年(36才)WWII終戦
1946年(37才)マックスプランク物理学研究所でハイゼンベルクさんの助手。フリッツ・アウターマンさんと共同研究。ハンス・ジャンセンさんと原子核の殻理論について共同研究。
1949年(40才)ゲッチンゲン大学で員外教授。
1950年(41才)ハイデルベルク大学で教授(物理学)(1974年まで)。
1956年(47才)ドイツ原子力委員会で原子核物理学ワーキンググループのメンバー(1957年まで)。
1970年(61才)カールスルーエ研究所で科学技術マネージングディレクター(1974年まで)。
1998年(89才)ハイデルベルクで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
□ ハンス・ガイガー Hans Geiger 1882–1945 ドイツの物理学者。
関係筋
■ ヴェルナー・ハイゼンベルク Werner Heisenberg 1901-1976
□ フリッツ・アウターマン Fritz Houtermans 1903–1966 ウィーン育ちの原子物理学者。
■ ハンス・イェンゼン Hans Jensen 1907-1973

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://en.wikipedia.org/wiki/Otto_Haxel

Otto Haxel

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(57)原子核の殻モデルを考案した:H・スエスさん

▼スエスさんはオーストリア生まれの物理化学者。WWII後はアメリカで活躍した。
▼フリッシュさんの自伝では、原子核の殻構造モデルを考案した研究者の一人として紹介されている。

ハンス・スエス Hans Suess 1909–1993
1909年、ウィーン生まれ。
教育
1914年(5才)WWI
1918年(9才)WWI終戦
1935年(26才)ウィーン大学でPh.D.(化学。指導教員は Philipp Grossさん)。
活動
1939年(30才)WWII。ノルウェーの重水プラントで製造アドバイザー。
1945年(36才)WWII終戦。ハンス・イェンゼンさんと原子核の殻モデルについて共同研究。
1950年(41才)渡米。シカゴ大学でHarold Ureyさんと宇宙化学を研究。
1955年(46才)スクリップス海洋研究所で研究。
1958年(49才)カリフォルニア大学サンディエゴ校UCSDの設立に参加。教授(1977年まで)。放射性炭素C14を使った年代測定ラボを立ち上げ研究を進める。
1977年(68才)UCSD名誉教授。
1982年(73才)隕石から新発見されたケイ素化合物がSuessiteと命名される。
1993年(84才)カリフォルニア州サンディエゴで死去。

▼師匠・弟子・関係筋
師匠
□ Philipp Gross 1899–1974 ウィーンの物理化学者。
弟子
□ Ellen R.M. Druffel
関係筋
□ ハロルド・ユーリー Harold Urey 1893–1981 アメリカの物理化学者。1934年に重水素発見の功績でノーベル化学賞を受賞。
■ ハンス・イェンゼン Hans Jensen 1907-1973

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳 「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」 吉岡書店、2003年。
https://en.wikipedia.org/wiki/Hans_Suess