リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(13) 光の波動性を唱えた:C・ホイヘンスさん

▼フリッシュさんの自伝でホイヘンスさんが突然現れるのは、ボーアさんの偉大さについて5年間一緒に働いた者として述べるくだりで、ニュートンさんの行動と比較としてのこと。
▼ボーアさんは自説を守るために新しい発見を排除するタイプではない。「ニュートンは偉大な威光によってホイヘンスの光の波動説に与しなかった、抑圧したと非難されるかも知れない。将来同じような非難がボーアに浴びせられるだろうか。私はそれを疑問に思う」(p.26)と記している。
▼ホイヘンスさんが光の波動説を提唱したのは、1690年、61才の時である。この年、ニュートンさんは48才。
▼ホイヘンスさんは自分で望遠鏡を作り、天体を観察していた数学者である。光が波かも知れないと考えたのも道理って感じがする。
▼ガリレオさんの望遠鏡は土星がクリアに観察できず、耳がついてるように見えた。ホイヘンスさんご自慢の望遠鏡では輪っかだと確認できた。ワクワクしたことだろう。

クリスティアーン・ホイヘンス Christiaan Huygens 1629-1695
1629年、オランダの ハーグ生まれ。父は外交官かつ詩人で音楽家。
教育
子供時代は小型のミル(砕く機械)や機械で遊ぶのが好き。家庭で教育。習ったのは:地理、数学、論理、修辞学、舞踊、フェンシング、乗馬。
1644年(15才)数学の先生から読むべき論文リストを渡され勉強(それだけ優秀だったため)。デカルトさん(1596-1650)からは幾何の能力の高さに驚かれる。
1645年(16才)父の方針で数学と法律を学ぶためにライデン大学入学。
1647年(18才)ブレダにあるオレンジカレッジに転学。
1649年(20才)オレンジカレッジを修了。
活動
1655年(26才)自作の50倍望遠鏡で土星の衛星タイタンを発見。改善した望遠鏡で土星の環を観測。
1656年(27才)さらに改善した望遠鏡で土星の環の形状を観察。オリオン大星雲を発見。振り子時計を製作
1658年(29才)『時計』発刊。
1659年(30才)等時曲線問題を解決。
1663年(34才)王立協会の外国人会員。
1666年(37才)パリに移住(1681年まで)。外国人として初めてアカデミー・ロワイヤル・デ・シアンスの会員。
1673年(44才)『振り子時計』発刊。
1675年(46才)世界初の実用的な機械式時計を製作。空気望遠鏡について解説した『収差補正望遠鏡』を発刊。世界初のレシプロエンジンを発明。
1685年(56才)パリからハーグに戻る(ナントの勅令が廃止されたため)。
1690年(61才)光の波動説を提唱する『光についての論考』を発刊。
1695年(66才)ハーグで死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%82%A4%E3%83%98%E3%83%B3%E3%82%B9
https://en.wikipedia.org/wiki/Christiaan_Huygens

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(13) 原子の状態を数学的に表現してみた:M・ボルンさん

▼フリッシュさんの自伝でボルンさんのことは「ゲッチンゲンでハイゼンベルクの先生であったマックス・ボルンは、自分で再構築を試み似ていた数学をこの若い天才に教えるとともに、ボルン自身もその式の解釈に重要な貢献をした」と紹介されている(p.25)。
▼ラザフォードさん(12月16日)、ボーアさん(12月15日)と続いてきた原子モデルの追求が数学で表現する話になっている。で、ボルンさんはに波動関数の確率解釈の功績で1954年にノーベル賞物理学賞を受賞している。
▼博士論文の審査会で質問に答えられず「普通」の判定を受けたハイゼンベルクさん(12月19日)が「まだ私を助手にするつもりはありますか」と尋ねた相手というのがボルン先生だった。もちろんボルン先生はハイゼンベルクさんを助手にする。

▼ボルンさんの年表は10月11日のブログを参照。

L・マイトナーさんと同時代の科学者(31) M・ボルンさん

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(12) 不確定性原理:W・ハイゼンベルクさん

▼ハイゼンベルクさんも、パウリさんと同じくゾンマーフェルトさんの弟子でノーベル賞を受賞した一人。
▼ハイゼンベルクさんはドイツ人。第二次大戦時、マックス・プランク先生(12月12日)から戦後の新しいドイツのために止まるべきではないか、と言われる。ナチスのユダヤ圧迫に反対の立場だったので「白いユダヤ人」と言われ圧迫を受ける。しかし専門が核物理なのでナチスの原爆製造プロジェクトに組み込まれていたため、英米から命を狙われる羽目になる。そんなトンデモな状況の中で原子物理学を発展させた人物。
▼フリッシュさんの自伝ではハイゼンベルクさんを「天才」と呼んでいる(p.25)。Wikipediaでは次のエピソードが面白い。博士論文の口頭試問で審査員の質問に全く答えられず平均的な評価になってしまった。(おそらく愕然としたのだろう)助手してくれる予定だった先生に会うと「まだ私を採用するおつもりはありますか」と尋ねたという。
▼ハイゼンベルクさんもマックス・プランクさんと同じくピアノの名手で将来、科学者になるかピアニストになるか悩んだことがある。プランクさんの場合、ピアノの先生に相談したところ「どうしようかと悩むようではやめておいたほうが良い」という答えを得た。
▼ハイゼンベルクさんの年表は9月30日のブログを参照。同じ日にパウリさんの年表もある。

マイトナーさんと同時代の科学者(19) W・ハイゼンベルクさん

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(11) 原子の住宅局長:W・パウリさん

▼パウリさんは、ゾンマーフェルトさんの弟子でノーベル賞を受賞した一人。
▼フリッシュさんの自伝では、パウリさんには「原子の住宅局長」というあだ名があった、と紹介している。その理由は、パウリさんが「同じ軌道に二個を超える電子が暮らすことを許さない」という「排他原理」を1923年発表したから。これは1945年にノーベル物理学賞を受賞の理由である。
▼さらにフリッシュさんは、パウリさんを紹介するくだりで「電子が存在できる軌道はゾンマーフェルトによって分類された。より多くの電子を持つ原子を考慮するには、パウリの住宅計画に従って順序良く軌道を専有していけば、ボーアの原子モデルを支えていた安定性の要求を満足した」とボーアさん以降の原子モデルの精密化の進化を整理している。(p.24)
▼パウリさんはエピソードの豊富な人物。パウリさんの年表は9月30日のブログを参照。

L・マイトナーさんと同時代の科学者(20) W・パウリさん

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(10) 原子物理学の開拓者で超一流の教育者:A・ゾンマーフェルトさん

▼ゾンマーフェルトさんは、ラザフォードさんやボーアさんが推し進めていた原子モデルの探求に携わったドイツの物理学者。
▼フリッシュさんの自伝では、ボーアさんの原子モデルに対して次々に疑問が生じたことを挙げ「このような混沌状態に対して、ミュンヘン大学で教えていたアーノルド・ゾンマーフェルトの多大な貢献によって、徐々に秩序がもたらされた」と紹介されている(p.24)。
▼ゾンマーフェルトさんのエピソード:弟子のうち4人がノーベル賞を受賞。本人はノーベル賞のノミネート回数は歴代トップなのに受賞していない。ノーベル賞の不思議な例のひとつ。
▼ゾンマーフェルトさんの年表は10月1日のブログを参照。

L・マイトナーさんと同時代の科学者(21) A・ゾンマーフェルトさん

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(9) 原子物理学の父:E・ラザフォードさん

▼オットー・フリッシュさんの自伝によると、ラザフォードさんは原子の姿を次のようにイメージしている。
・原子のサイズは、1911年にラザフォードさんが実験で確かめるまで、みんなが考えていたよりはるかに小さい。
・原子の重さの99.9%以上は極めて小さい中心の核に集中している。
・残りはいくつかの電子によって巡回されているからっぽの空間である。
・惑星が太陽の周りを回るように、電子が核の周りを回る。
▼「このモデルは、いまや時代遅れとなってしまったが、シンボルというものは長い寿命を持っている。時の神はいまだに砂時計と共に描かれていて、腕時計とともに描かれてはいない」(p.22)。
▼ラザフォードさんの年表は11月14日のブログを参照。

リーゼ・マイトナーさんとキャヴェンディッシュ研究所の神々(3)原子のモデルを示した:E・ラザフォードさん


※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(8) 原子モデルを作った:N・ボーアさん

▼フリッシュさんの自伝の中でボーアさんは師匠格。生年もフリッシュさんは1904年、ボーアさんは1885年なので19才違い。リーゼ・マイトナーさんは1878年でボーアさんよりも7才上。
▼フリッシュさんは毎年クリスマスは叔母のリーゼ・マイトナーさんと過ごす習慣だった。しかし1938年、ナチスから逃れるためリーゼ・マイトナーさんはベルリンを脱出。その年のクリスマスはフリッシュさんは脱出先にリーゼ・マイトナーさんを訪れる。そこでリーゼ・マイトナーさんが抱える課題を一緒に考えた結果「核分裂」の概念を掴む。フリッシュさんはコペンハーゲンに戻るとその話をボーアさんに伝える。第二次世界大戦前という時代背景があり、ここから原子爆弾の話が始まる。

ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア Niels Henrik David Bohr 1885-1962
1885年、デンマークのコペンハーゲン生まれ。父はコペンハーゲン大学の生理学教授。母はユダヤ系の豊かな実家の出身。
教育
1892年(7才)ガンメルホルム・ラテン学校に入学。
フットボール選手。コペンハーゲンの地元アカデミック・フットボール・クラブに所属。
1903年(18才)コペンハーゲン大学に入学。同大学でただ一人の物理学教授C・クリスチャンセン先生の下で物理学を専攻。天文学と数学をT・Thiele先生に、生理学を父親の友人H・Høffding先生について学んだ。
1905年(20才)液体の表面張力に関する実験的研究でデンマーク王立科学アカデミーから金メダル。大学には物理実験室がなかったので、父親の研究室を借りて一連の実験を行う。実験用のガラス器具も自作した。
1908年(23才)ロンドン・オリンピックにデンマーク代表サッカーチームの予備選手(ゴールキーパー)としてスタンバイ。
1909年(24才)クリスチャンセン先生に課されたテーマで修士論文を作成。引き続き、同じテーマを深化させた博士論文の研究を続ける。
1911年(26才)論文が受理される。内容は画期的だった。しかしデンマーク語で書かれていたため読み手が少なく注目を集めることはなかった。
活動
1911年(26才)イギリスへ留学。キャヴェンディッシュ研究所でJ・J・トムソンさん(11月13日)の下で研究。次にマンチェスター大学のE・ラザフォードさん(11月14日)の元で原子模型の研究。へヴェシーさん(8月8日)と出会う。軸足を実験から理論に移す。
1912年(27才)コペンハーゲン大学に戻り、講義資格を持つ。ラザフォードさんの原子模型の欠点をマックス・プランク先生の量子仮説を用いて解消。
1913年(28才)ボーアの原子モデルを確立した。
1914年(29才)WWI
1917年(32才)理論物理学研究所開設に向けた活動を開始。デンマーク政府、財団、ユダヤ人グループから応援を得る。
1918年(33才)理論物理学研究所開設の議案がデンマーク議会を通過。WWI終戦
1921年(36才)コペンハーゲンで理論物理学研究所(ニールス・ボーア研究所)を開設。
外国から多くの物理学者を招いてコペンハーゲン学派を形成。
1922年(37才)ノーベル物理学賞を受賞(原子構造とその放射に関する研究)。
1933年(48才)ドイツのナチズムが勢いを増す。アメリカのロックフェラー財団が難民学者を救済するファンドを立ち上げる。ボーアさんはこのファンドを使ってボーア研究所で難民した学者が一時的に研究できる環境を整備。
1938年(53才))コプリ・メダル受賞。
1939年(54才)WWII
1940年(55才)ナチスがデンマークを占領。ドイツ軍がマックス・フォン・ラウエさん(9月17日)とジェームズ・フランクさん(9月17日)のノーベル賞の金メダルを略奪するのを防ぐため、へヴェシーさんに王水に溶かしてもらい研究所内で保管した。研究所に来ていた外国人研究者は皆別れ別れになった。
戦後、王水で溶けた金の沈殿物をノーベル財団に持ち込み金メダルを再生してもらった。ボーアさん自身の金メダルは生物学者アウグスト・クローグさんのメダル(1920年のノーベル生理学・医学賞)と一緒にフィンランド救済基金のオークションに提供された。(オークションで購入した人はデンマークのフレデリスクボー城にある歴史美術館に寄贈し現在も保管されている。)
1943年(58才)母親がユダヤ人であるためナチスに逮捕される危険が迫り、デンマークからスウェーデンに脱出。イギリスがボーアさん救出のため高速が出るように改装した軍用機を出してくれ、イギリスに渡る。さらにマンハッタン計画に協力するためアメリカに行く。プリンストン高等研究所IASでアインシュタインさんと会う。
1944年(59才)イギリスのチャーチル首相と面談するも原爆開発の考え方について合意できず。
1945年(60才)WWII終戦
1962年(77才)デンマークで死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Niels_Bohr
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A2

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(7) 陰極線:P・レーナルトさん

▼陰極線の研究から、電子は原子を構成する一要素であること、原子の大部分は何もない空間であること、プランク定数が適用できることなどを説明。
▼フリッシュさんの自伝では、プランクさんの量子仮説を支持する「しっかりと地面に立った二つの足」としてアインシュタインさんの「光量子仮説」とレーナルトさんの陰極線の研究を挙げている(p.21)。
※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。

フィリップ・レーナルト Philipp Lenard 1862–1947
1862年、オーストリア帝国ハンガリー王国プレスブルク(現在ブラチスラヴァ)生まれ。ドイツ人。父はワイン商。
教育
Pozsonyi Királyi Katolikus Főgymnasium (今日は Gamča)で学ぶ。
1880年(18才)ウィーンとブダペストで物理学と化学を学ぶ。
1882年(20才)プレスブルグに戻る。
1883年(21才)ハイデルベルクに転居。ロベルト・ブンゼンに師事。ヘルマン・ヘルムホルツにも1学期間学ぶ。
1886年(24才)ハイデルベルク大学で博士。
活動
1887年(25才)ブダペストでエトヴェシュ・ロラーンドの助手。
1888年(26才)陰極線の研究を開始。レーナルト管を開発。陰極線が負に帯電したエネルギー粒子の流れと結論。 量子(quanta)と命名。
・アーヘン大学
・ボン大学
・ヴロツワフ大学
1892年(30才)落下する水滴が微粒化すると帯電する現象をレナード効果として説明。風洞を開発し水滴の形状を発見。
1896年(34才)ハイデルベルク大学 (1898年まで)。X線を研究するレントゲンさん(6月12日)にレーナルト管を提供するも論文に謝辞がないことに激怒
1898年(36才)キール大学 (1907)年まで 。
1905年(43才)ノーベル物理学賞(陰極線に関する研究)。スウェーデン王立科学アカデミー会員。
1907年(45才)ハイデルベルク大学フィリップ・レーナルト研究所所長。ハンガリー科学アカデミー会員。
1914年(52才)WWI
1918年(56才)WWI終戦
1931年(69才)ハイデルベルク大学の教授(理論物理学)を引退、名誉教授。
1933年(71才)『科学の偉人たち 科学発展の歴史(Great Men in science, a History of scientific progress)』発行。
1939年(77才)WWII
1945年(83才)WWII終戦
1947年(85才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%88
https://en.wikipedia.org/wiki/Philipp_Lenard

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(6) 相対性理論:A・アインシュタインさん

▼フリッシュさんによれば「プランクさんの量子仮説によって物理学は膠着状態になった。これを打破したのがアインシュタインさん」という。プランクさんの量子仮説はどうやら正しいらしい、という話になった。
▼アインシュタインさんが20代の半ば、プランクさんが40代の半ばの時の話。20代の頭脳の冴えを再認識して敬意を払わなければならない。

アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein 1879-1955
1879年、ドイツ、バーデン=ヴュルテンベルク州ウルム市生まれ。ユダヤ人。父は数学愛好家、羽毛寝具店の経営者。
1880年(1才)一家でミュンヘンに転居。父が弟と電気機器製造会社「Elektrotechnische Fabrik J. Einstein & Cie」を設立。
教育
1884年(5才)父に方位磁針(コンパス)をプレゼントされ科学への興味が芽生える。バイオリンのレッスンを開始。ミュンヘンのカトリック系の公立学校に入学。
ミュンヘンにあるルイトポルト・ギムナジウムに入学。
1894年(15才)父と弟の会社の経営が行き詰まる。一家でイタリアのミラノに転居。
1895年(16才)スイスのギムナジウムに入学。
1896年(17才)チューリッヒ連邦工科大学に入学。ドイツ市民権を放棄。
1900年(21才)チューリッヒ連邦工科大学を卒業。学部長と不仲のため大学に残れず。
活動
1901年(22才)スイス国籍を取得。スイスの兵役免除(身体的理由)。
1902年(23才)スイス特許庁で3級技術専門職(審査官)。父が死去。
1903年(24才)結婚。
1905年(26才)チューリッヒ連邦工科大学で博士。3本の重要論文を発表。「奇跡の年」
「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」
1906年(27才)スイス特許庁2級技術専門職(審査官)。
1907年(28才)E=mc²を発表
1909年(30才)特許局を辞め、チューリッヒ大学で助教授。ジュネーヴ大学から名誉博士号。
1910年(31才)プラハ大学で教授。
1911年(32才)ソルベー会議に招待。
1912年(33才)チューリッヒ連邦工科大学で教授。
1913年(34才)プロイセン科学アカデミーの会員。ベルリンに転居。
1914年(35才)WWI
1915年(36才)ロマン・ロランと出会い意気投合。
1916年(37才)一般相対性理論を発表。
1918年(39才)WWI終戦
1921年(42才)アメリカ訪問。
1922年(43才)日本訪問。訪問途上、ノーベル物理学賞受賞(光電効果の発見)
1930年(51才)レオ・シラードさんと家庭用冷蔵庫の特許を共同申請。
1932年(53才)アメリカに転居。
1935年(56才)アメリカでの永住権を取得。
1936年(57才)「アインシュタイン=ローゼン橋」発表(のちのワームホール)。
1939年(60才)原子力に関するフランクリン・ルーズベルトあての手紙の署名者になる。WWII
1940年(61才)アメリカの国籍を取得。
1943年(64才)アメリカ海軍省兵器局で顧問。
1945年(66才)WWII終戦
1946年(67才)原子科学者緊急委員会議長。
1948年(69才)イスラエル建国。
1955年(76才)ラッセル=アインシュタイン宣言。プリンストン病院で死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3

リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(5) 量子論の父:M・プランクさん

▼フリッシュさんの自伝では、プランクさんを「ただ、熱の理論を秩序ある形にしようと試みていたのだ(中略)。これによってガリレオ以来の最も偉大な改革を始めてしまった」(p.20)と紹介している。
▼マックス・プランクさんの年表はすでに9月9日の記事「L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(2) マックス・プランクさん」で紹介しているので参照して欲しい。https://gakuryokuup.com/2020/09/page/3/
▼プランクさんは「光をエネルギーの塊とみる」「それを量子と呼ぶ」「量子1個のエネルギーは光の波長に依存」「計算用に定数hを仮定する」「ある色の光波の振動数にhを乗じたものが各量子のエネルギーの量」という「量子仮説」を公表した(p.20)。これに対して物理学者は膠着状況になったようだ。それを打破したのがアインシュタインさんである。
※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。