L・マイトナーさんと同時代の科学者(31) M・ボルンさん

▼研究者としても教育者としても超一流の量子力学分野のノーベル賞学者。
▼マイトナーさんより年齢は4つ下。時代環境はほぼ同じ。ナチス政権のユダヤ人政策のために職を追われ、国籍を奪われ、博士号まで取り消される目にあった。それでも年表からは慌てず騒がず落ち着いた人柄が伺える。
▼学生時代も教授になってからも、敵対する人もいれば味方になってくれる人がいた。たびたびピンチに襲われたものの、応援してくれる人のおかげで仕事を得られた。下の年表に出てくる人はみんなボルンさんの力強い味方。
▼歌手オリビア・ニュートン・ジョンさんの祖父。

マックス・ボルン Max Born 1882-1970 理論物理学者
1882年、ドイツ帝国(現在ポーランド)ブレスラウ生まれ。ユダヤ人。父親はブレスラウ大学の教授(発生学)。
1886年(4才)母を亡くす。
教育
ケーニヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム。
1901年(19才)ブレスラウ大学入学。ドイツは学生が国内の様々な大学を経験できる仕組みになっていた。
1902年(20才)ハイデルベルク大学。
1903年(21才)チューリッヒ大学。
1904年(22才)ゴッチンゲン大学。
1906年(24才)ゴッチンゲン大学でPhD(数学)。
活動
1907年(25才)学業のために延期していた兵役に就く。喘息発作のため短期間で終了。英国に渡り、ケンブリッジ大学とキャベンディッシュ研究所でJ.J.トムソン先生らの下で研究。
1908年(26才)帰国後、軍務に就くも再び体調不良。ブレスラウに戻る。
1909年(27才)ゴッチンゲン大学の Minkowski 先生から誘いを受け共同研究を実施。しかしMinkowski 先生が急死。ヒルベルト先生らの応援を得て講義資格を得る。
1910年(28才)ゴッチンゲン大学の教員の身分を得る。
1913年(31才)27本の論文の発表実績を積む。
1914年(32才)WWI。マックス・プランクさん(9月9日)の招きでベルリン大学の新設教授に就くためベルリンに移動。
1915年(33才)ベルリン大学の教授になる前、ベルリン駐在の軍でソナーの研究に従事。アインシュタインさんと親交を結ぶ。
1918年(36才)WWI終戦。ハーバーさん(9月13日)と共にボルン=ハーバー・サイクルを発見。
1919年(37才)フランクフルト・アム・マイン大学で教授(理論物理学)。
1921年(39才)ゴッチンゲン大学で教授(理論物理学)。盟友のJ・フランクさん(9月17日)も教授(実験物理学)に着任。
1922年(40才)ミュンヘン大学のゾンマーフェルト先生(10月1日)と共同研究。同先生の弟子のハイゼンベルクさん(9月30日)が学位を取れたら助手につける話がまとまる。
1924年(42才)ハイゼンベルクさんが学位を取得して助手になる。
1925年(43才)ハイゼンベルクさんと量子力学の論文を発表。
1933年(51才)ナチスの台頭によりイギリスに脱出しケンブリッジ大学セント・ジョン・カレッジで一時的に教授になる。
1935年(53才)ボルンさん一家の国籍がナチスによって抹消される。ゲッチンゲン大学で取得した博士号も取り消される。
1936年(54才)チャールズ・ダーウィンの孫で物理学者のCharles Galton Darwinさんからエジンバラ大学の教授(自然哲学)を打診され受諾。
1939年(57才)イギリス国籍を得る。WWII
1945年(63才)WWII終戦
1952年(70才)エジンバラ大学を退任。
1954年(72才)西ドイツの温泉地バート・ピルモントに転居。ノーベル物理学賞を受賞。
1970年(88才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Max_Born
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%B3

L・マイトナーさんと同時代の科学者(30) M・ポランニーさん

▼ポランニーさんは「暗黙知」という概念を我々にもたらしてくれた人物。医学と化学、2つの博士号を持つ。物理化学者かつ経済社会学者。
▼1920年からハーバーさん(9月13日)の招きでベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所のメンバーになっている。マイトナーさんは同じ研究所で核物理部のリーダーをしていた。32年にはポランニーさんは同研究所の所長になるのだから、まさに同時代、同じ場所にいたわけだ。
▼ポランニーさんはナチスの迫害が始まる1933年にすぐイギリスに渡っている。一方、マイトナーさんがベルリンを離れるのは38年。5年もの差はナチスに対する危険の感じ方の違いだろうか。
▼ポランニーさんは第二次大戦でドイツでハイパーインフレが起きて失業者があふれた現象を見て経済に関心を持ち始める。その結果、何と専門を物理化学から経済学、社会学に転換する。これまで紹介してきた化学者たちと異なる生き方だ。70才を超えてから「暗黙知」という概念を生み出す。暗黙知とは言葉にできないけれども確かに人が持つ身体的な知のこと。ポランニーさんが物理化学一本の道を歩んでいたら、我々には暗黙知という概念がなかったかも知れない。ありがとうございます、ポランニー先生。

マイケル・ポランニー Michael Polanyi 1891-1976

1891年、ハンガリーのブダペスト生まれ。ユダヤ人。
教育
1908年(17才)ミンタ・ギムナジウムを首席で卒業。
1912年(21才)カールスルーエ大学のブレディッヒ教授の下で化学の研究。
1913年(22才)ブダペスト大学で博士(医学)。
1914年(23才)WWI。戦争中は入隊、医療将校としてセルビア前線に赴任。
1916年(25才)病気になったため戦線を離脱。
1917年(26才)吸着効果について研究。アインシュタインさんから研究を激励される。
1918年(27才)WWI終戦
1919年(28才)ブダペスト大学で博士(化学)。
活動
1920年(29才)ハーバーさんの招きでベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所へ。
1921年(30才)ウィグナーさん(10月4日)の博士研究の指導教員。
1928年(37才)シラードさん(10月9日)、ウィグナーさん、ノイマンさんらとソ連問題研究会を作る。
1932年(41才)カイザー・ヴィルヘルム研究所所長。
1933年(42才)ナチスのユダヤ人迫害が始まる。英国に渡りマンチェスター大学の教授(物理化学)。ドイツで加速するインフレと失業を見て経済に関心を持ち始める。
1948年(57才)マンチェスター大学がポランニーさんのために社会科学の枠を設ける(58年まで)。
1939年(48才)WWII
1940年(49才)The Contempt of Freedom を発表。
1945年(54才)WWII終戦
1946年(55才)Science, Faith and Society を発表。
1948年(57才)Full Employment and Free Trade を発表。
1949年(58才)研究対象を社会科学にシフトチェンジ。
1951年(60才)The Logic of Liberty を発表。
1958年(67才)マンチェスター大学を引退。オックスフォード大学モートン校の senior research fellow。 Personal Knowledge を発表。
1966年(75才)The Tacit Dimension を発表。暗黙知を紹介。
1968年(77才)Life’s irreducible structure を発表。
1970年(79才)Transcendence and Self-transcendence を発表。
1976年(85才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BC
https://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Polanyi

L・マイトナーさんと同時代の科学者(29) L・シラードさん

▼シラードさんはマイトナーさんととても近い二人のよき人物と関係があった。
M・ラウエさん(9月17日)とJ・フランクさん(9月17日)だ。ラウエさんはシラードさんの指導教員だった。フランクさんは原爆が現実のものになったとき米政府がどのように扱うべきか化学者としての考えをまとめる役割を引き受けそのメンバーにシラードさんがいた。とにかく議論がまとまらない。シラードさんに対してラウエさんは次のように言ったという。「君は私よりcleverかもしれない。だが私の方がwiseだよ」。ここでcleverは論理的な正しさ、wiseは状況を鑑みて言葉を選ぶ知恵、という意味合いだろう。
▼シラードさんはものすごく先読み力が働く人だった。ナチスの危険性にもいち早く気づき、遠ざかっている。
▼ウィグナーさん(10月4日)はシラードさんのよき理解者だった。Wikipediaでシラードさんの記事を読んでいると敬遠したくなる。でもウィグナーさんのように深く温かい言葉で述懐してくれる人を得ていたのはうらやましい。

レオ・シラード Leo Szilard 1898–1964

1898年、ブダペスト生まれ。ユダヤ人。
教育
1908年(10才)技術系高等学校(16年まで)。
1914年(16才)WWI
1916年(18才)王立ヨージェフ工科大学に入学。
1917年(19才)徴兵され士官候補生に(18年まで)。
1918年(20才)WWI終戦
1919年(21才)オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊。半年ほどハンガリー共産党が政権。ハンガリー国新陸軍が政権を打倒。以後、反ユダヤ主義が盛んになる。ハンガリーを脱出。
活動
1920年(22才)ベルリン工科大学に入学。
1921年(23才)ベルリン大学に転学しラウエ先生に博士論文の指導を受ける。
1922年(24才)ベルリン大学で博士。指導教員はラウエ先生
1925年(27才)ラウエ先生の助手。
1927年(29才)ベルリン大学で私講師。マイトナーさんと実験核物理学の研究を模索(実現せず)。
1933年(35才)ナチスが政権を取る。ベルリンを脱出しウィーンへ脱出。
1934年(36才)オックスフォード大学クラレンドン研究所で常勤研究員。
1938年(40才)渡米しそのまま止まる。ハーンさんらの実験結果をマイトナーさんとフェリッシュさんが核分裂と名付けたニュースを知る。核爆弾の実現可能性とナチスに先を越される危機感を持つ。
1939年(41才)WWII。コロンビア大学でシラードさんとフェルミさんがウランの核分裂実験を行い、核爆弾製造の実現可能性を確認。アインシュタインさんと協力して大統領に核爆弾研究の必要を訴える手紙を送る。
1940年(42才)科学研究開発局(V・ブッシュさん委員長)から4万ドルの研究資金がコロンビア大学に出る。
1942年(44才)陸軍が原子爆弾の製造を目標にしたマンハッタン計画がスタート。シカゴ・パイル1号の完成に貢献。言動からマンハッタン計画の中で敵性外国人と見られるようになる。
1945年(47才)WWII終戦
1947年(49才)関心が分子生物学の研究に向かう。シカゴ大学社会科学科でアドバイザー。
1964年(66才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89

L・マイトナーさんと同時代の科学者(28) A・コンプトンさん

▼コンプトンさんは専門分野ではノーベル物理学賞を受賞し、マネジメント分野ではWWIIの間はマンハッタン計画を支え、戦後は大学の学長を務めるなど一貫してバランスの取れたハイパフォーマンスの人物である。
▼マイトナーさんより14才若い。マンハッタン計画の目標である原爆の製造に向け、節目で重要な判断を下し続ける立場にあった。核分裂の専門家であるマイトナーさんが原爆投下のニュースを知って驚いた。それほどのスピードでプロジェクトが進んだのは、自らが専門家でありかつ、自己主張の強い科学者たちをマネジメントできるコンプトンさんのような人物がいたからこそ、と納得させられる。

アーサー・コンプトン Arthur Holly Compton 1892-1962 物理学者。
1892年、米オハイオ州ウースター生まれ。父はウースター大学の教授。
教育
1910年(18才)ハレー彗星を撮影するなど天体に興味を持つ。
1913年(21才)ウースター大学で理学士。プリンストン大学に入学。
1914年(22才)WWI。プリンストン大学でMA。
1916年(24才)プリンストン大学で博士(物理学)。指導教員はH. Cooke先生。
活動
1916年(24才)ミネソタ大学で専任講師(物理学)、17年まで。
1917年(25才)ウェスティングハウス・ランプ・カンパニーで研究エンジニア。ナトリウムランプの開発。
1918年(26才)WWI終戦
1919年(27才)奨学金を得てケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所でガンマ線の散乱と吸収を研究(20年まで)。
1920年(28才)セントルイス・ワシントン大学で物理学のWayman Crow教授職、物理学科長。
1922年(30才)「コンプトン効果」を発見。
1923年(31才)Physical Review誌に論文発表。アメリカ物理学会で結果を発表し激しい論争を巻き起こす。シカゴ大学で教授(物理学)。
1926年(34才)ゼネラル・エレクトリックのランプ部門のコンサルタント。最初の著書X-Rays and Electronsを出版。
1927年(35才)「コンプトン効果」発見の功績でノーベル物理学賞を受賞
1939年(47才)WWII
1941年(49才)アメリカ国防研究委員会NDRCのV・ブッシュ委員長はNDRCのウラン計画を報告する特別委員会を設立、コンプトンさんが委員長。コンプトン報告書でプルトニウムの軍事利用を予測。
1942年(50才)マンハッタン計画が始まりコンプトンさんのプロジェクトはその一部となる。フェルミさんのシカゴ・パイル1号建設を監督。
1943年(51才)制御連鎖反応を確認。ウランをプルトニウムに変換する原子炉を製造するためシカゴ大学冶金研究所に専門家グループを集める。
1945年(53才)WWII終戦。シカゴ大学Charles H. Swift物理学特別功労教授を辞任。
1946年(54才)セントルイス・ワシントン大学の学長(54年まで)。
1954年(62才)セントルイス・ワシントン大学の自然哲学特別功労教授(61年まで)。
1956年(64才)マンハッタン計画での自分の役割を説明した著書 Atomic Quest を出版。
1962年(70才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Compton

L・マイトナーさんと同時代の科学者(27) S・ウラムさん

▼マイトナーさんとウラムさんは専門が核物理学で、ユダヤ人という点が共通している。違うのは核分裂への態度。マイトナーさんは核の研究を学術にとどめめた。ウラムさんは原爆を通り越して水爆まで行った。
▼ウラムさんとテラーさん(10月6日)の関係は微妙だ。テラーさんはマスコミに対してウラムさんの役割を過小評価して話した。結果、マスコミによってテラーさんが水爆の父という見方が定着した。しかし、ベーテさん(10月5日)に言わせると違う。「私に言わせればウラムが水爆の父でテラーは水爆の母だね。私はというと、助産師というところかな」
▼ウラムさんはノイマンさんとウマがあったようで、ENIACやノイマンさんがプリンストン高等研究所IASで制作したコンピュータの姉妹機MANIACを使い込んでいた。数々の数学的でコンピュータが絡む発見はENIACとMANIAC、そしてノイマンさんの存在が大きい。

スタニスワフ・マルチン・ウラム Stanisław Marcin Ulam 1909-1984
数学者。核物理学者。水爆の機構の発案者

1909年、ウクライナのリヴィウ生まれ。両親とも経済的に豊かなユダヤ人。
1914年(5才)WWI
1918年(9才)WWI終戦
教育
1919年(10才)リヴィウ Lwów 第7ギムナジウムに入学。
1927年(18才)ギムナジウムを卒業。リヴィウ工科大学 Lwów Polytechnic Institute に入学。数学を学ぶ。
1932年(23才)リヴィウ工科大学で Master of Arts。
1933年(24才)リヴィウ工科大学で Doctor of Science。
活動
1935年(26才)ノイマンさんの招きで数か月、IASプリンストン高等研究所で過ごす。
1936年(27才)休みの期間はポーランドで過ごし、残りはハーバード大学で過ごす。エルゴード理論につながる考察を行う。
1939年(30才)ポーランドに戻り17才年下の弟アダムさんと再び渡米。WWII。残った家族はホロコーストに遭う。
1940年(31才)ウィスコンシン-ミシガン大学で助教授。
1941年(32才)アメリカ市民になる。
1943年(34才)H・ベーテさんからマンハッタン計画参加の招待状が届く。ロスアラモス国立研究所でテラーさんのグループに入りE・フェルミさんらとスーパー爆弾の開発。水爆を爆発させる基本機構を考案。
1945年(36才)WWII終戦。肺炎を患い緊急脳手術を受ける。ロスアラモス研究所を辞め、南カリフォルニア大学でassociate professor。
1946年(37才)健康が回復したので再びロスアラモス国立研究所に戻る。調子を取り戻すためENIACでソリティアをして遊ぶ。遊びながら電子計算機を使った数学の可能性を考えるているとノイマンさんがその数学的意義を見抜く。女性計算手の助けを借りENIACでテラーさんの方式を計算した結果、機能しないことが判明。
1949年(40才)ノイマンさんが名付け親のモンテカルロ法を考案し論文にして発表。ソ連が原爆 RDS-1の実験に成功。しかし広島型原爆ファットマンを真似ていたことから、トルーマン大統領がスパイ防止策を講じ、より強力な爆弾開発を指示。
1950年(41才)ENIACとノイマンさん設計のMANIACをフル活用。ノイマンさんと共にセル・オートマトンを発見。
1951年(42才)テラーさんと計算やり直した結果、テラー-ウラム設計を完成。テラーさんがロスアラモス研究所を去ってシカゴ大学へ。ウラムさんはハーバード大学のvisiting professorになる。
1952年(43才)世界初の水爆実験アイビー作戦 Operation Ivy を実施。コードネームは、マイク Mike。
1953年(44才)ソ連が水爆 (RDS-6) の実験に成功。
1954年(45才)今度はアメリカが小型の水爆実験キャッスル作戦 Operation Castle に成功。
1956年(47才)MITのvisiting professor。
1961年(52才)ソ連が水爆 (RDS-220 ツァーリ・ボンバ) の実験に成功。広島型原爆の3,300倍、WWIIで使用された爆薬の10倍の威力。あまりの威力と実用性の乏しさから、以後、各国は小回りが利く小型核爆弾の開発に転換する。
1963年(54才)ウラムの螺旋(らせん)を発表。素数をルールに従って並べて可視化したもの。
1965年(56才)コロラド大学で教授(84年まで)。
1984年(75才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Stanislaw_Ulam
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%A0

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%A0

L・マイトナーさんと同時代の科学者(26) E・テラーさん

▼テラーさんは年齢がマイトナーさんより30才若い。考え方はマイトナーさんと反対。テラーさんは原爆を強力に推進する化学者。世界初の原爆実験(トリニティ実験)を見て、思ったよりスケールが小さいと感じた。ソ連も核弾頭の開発を進めていたので、米国もそれを上回る核爆弾を持つべきと考えた。それが水爆開発につながる。水爆の父。

エドワード・テラー Edward Teller 1908-2003  核物理学者。
1908年、ハンガリーのブダペスト生まれ。父は弁護士、母はピアニスト。共にユダヤ人。言葉は遅いが、計算は早い幼年時代。
教育
1919年(11才)オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊。半年ほどハンガリー共産党が政権。このため父が失業。しかしハンガリー国新陸軍が政権を打倒。反ユダヤ主義が盛んになる。ブダペストのFasori Lutheranギムナジウム、Mintaギムナジウムで学ぶ。
1914年(6才)WWI。
1918年(10才)WWI終戦。
1926年(18才)ユダヤ人への圧迫が強まったので一家でハンガリーからドイツへ移住。Karlsruhe大学に入学。数学と化学を学ぶ。
1928年(20才)電車事故で右足先端を切断。Karlsruhe大学で学士(化学工学)。専門を物理に変えてミュンヘン大学に入学。物理をゾンマーフェルト先生に学ぶ。
1929年(21才)ミュンヘン大学からライプツィヒ大学に転学。
1930年(22才)ライプツィヒ大学で Ph.D.(物理学)。指導教員はヴェルナー・ハイゼンベルク先生(9月30日)。
活動
1930年(22才)ボルン先生とJ・フランク先生(9月17日)のいるゲッティンゲン大学に身を置く。
1932年(24才)フェルミ先生(9月14日)のもとで原子核物理学を研究。
1933年(25才)ヒトラーが政権を取りユダヤ人を圧迫。
1934年(26才)ユダヤ人救出委員会の助けでドイツを脱出、イングランドを経てコペンハーゲンに行く。ニールス・ボーアさんの助けを得る。
1935年(27才)アメリカ合衆国に移住。
1939年(31才)WWII
1941年(33才)アメリカ市民になる。ジョージ・ワシントン大学で教員。
1942年(34才)オッペンハイマーさんがカリフォルニア大学バークレー校で開いた原子爆弾製造法についてのセミナーに参加。
1942年(34才)マンハッタン計画に参加。ロスアラモス国立研究所の理論物理学部門に所属。水素爆弾の開発を主張。
1943年(35才)友人のレフ・ランダウの運命を知り共産主義反対の立場。
1945年(37才)トリニティ実験に立ち会う。WWII終戦
1946年(38才)シカゴ大学で教授。
1949年(41才)ソビエト連邦が核爆発を成功させる。アメリカを刺激。
1950年(42才)ロスアラモス国立研究所で水爆計画に携わる。
1952年(44才)カリフォルニア大学放射線研究所ローレンス・リバモア支部に入る。
1954年(46才)身上調査審問でオッペンハイマーさんを非難。その後、二人の関係が悪化。
1958年(50才)ローレンスリバモア国立研究所の所長(60年まで)。カリフォルニア大学バークレー校で教員。
1975年(67才)カリフォルニア大学バークレー校を引退。ローレンスリバモア国立研究所の名誉所長。フーバー研究所のシニア研究員。
1982年(74才)アメリカ科学界最高峰のアメリカ国家科学賞を受賞。
2003年(95才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%A9%E3%83%BC

L・マイトナーさんと同時代の科学者(25) H・ベーテさん

▼ベーテさんはマンハッタン計画に加わり、原爆の製造に協力した物理学者。ナチスに先を越されてはいけないという思いで科学者と軍は超特急で原爆を完成させた。実際に原爆投下の話を聞いたマイトナーさんは大変に驚いたという(実際に運用できる原爆を作るまでにはもっと時間がかかるとみていた)。
▼ベーテさんは、恒星の内部で核融合反応が起きている報告によってノーベル物理学賞を受賞した。

ハンス・アルプレヒト・ベーテ Hans Albrecht Bethe 1906-2005 核物理学者
1906年、シュトラスブルク(現在はフランスのストラスブール)生まれ。ドイツ系ユダヤ人。父はストラスブルグ大学出の哲学博士。
教育
1912年(6才)父がキール大学哲学研究所の教授・所長になったので一家でキールに引っ越し。
1914年(8才)WWI
1915年(9才)父が University of Frankfurt am Mainの哲学研究所の所長になったのでフランクフルトに引っ越し。フランクフルトのゲーテ・ギムナジウムに入学。
1916年(10才)結核と診断されバートクロイツナハで治療。
1917年(11才)回復したので地方の中等学校に入る。
1918年(12才)WWI終戦。全寮制男子校のOdenwaldschuleに入学。
1922年(16才)フランクフルトのゲーテ・ギムナジウムに戻り卒業までの3年間を過ごす(24年まで)。
1924年(18才)フランクフルト大学に入学。化学を学ぶも教員体制に満足できず。
1926年(20才)ミュンヘン大学に入学し、ゾンマーフェルト先生(10月1日)の弟子になる。
1928年(22才)ミュンヘン大学でPhD、指導教員はゾンマーフェルト先生。
活動
1929年(23才)フランクフルトで助手を務めるも刺激がなかった。ボルンさんの理論を発展させた Bethe formula を開発。
1930年(24才)大学教授資格を取る。ロックフェラー奨学金を得てケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所でポスドク。 Bethe formula の相対性理論版元の霧箱を制作。
1931年(25才)ローマのフェルミ研究所で研究。フェルミさんの物事をシンプルにする方法とゾンマーフェルト先生の厳密な研究手法の二つを自分の武器にする。
1932年(26才)テュービンゲン大学で実験物理学のassistant professor。
1933年(27才)ナチス政権のドイツを逃れイギリスに渡る。マンチェスター大学の講師(34年まで)。
1935年(29才)コーネル大学で核物理学のacting assistant professor。
1939年(33才)WWII。恒星の中で核融合反応が起きていることを報告。
1941年(35才)MIT放射線研究所のメンバーになる。
1942年(36才)オッペンハイマーさんがカリフォルニア大学バークレー校で開いた原子爆弾製造法についてのセミナーに参加。
1943年(37才)マンハッタン計画に参加。ロスアラモス秘密兵器研究所で理論部門の監督。研究所長がオッペンハイマーさん。メンバーはボーア、フェルミ、ノイマン、フリッシュ、セグレ、テラー、ウラム、アーサー・コンプトン、レオ・シラード、ローレンス、J・ホイーラー、シーボーグさんら。
1945年(39才)トリニティ実験。アメリカが広島・長崎に原爆投下。WWII終戦
1948年(42才)コロンビア大学で客員教授(49年まで)。
1967年(61才)ノーベル物理学賞を受賞。恒星内で起こる核反応の研究成果に対して。
1990年(84才)太陽ニュートリノ問題を発表。
2005年(99才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Hans_Bethe
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%86

L・マイトナーさんと同時代の科学者(24) E・ウィグナーさん

▼ウィグナーさんとマイトナーさんとの直接の関わりは不明。しかし、ドイツ物理学会の水曜コロキウムに参加しプランク先生、ラウエさんらと交流していたのでマイトナーさんと面識があってもおかしくない。
▼ユダヤ人だったので1930年代から活動拠点をアメリカに移した。ぎりぎりまでベルリンに残って危ない目にあったマイトナーさんと違う。ドイツの放射能研究の進み具合を気にかけており、ドイツに先を越される前にアメリカが原爆を持つべきとルーズベルト大統領に進言する。マンハッタン計画に参加し世界初の原子炉が稼働するまで指揮する。実際に原爆が日本に落とされた後は、武器としての原爆使用を制御する立場になる。
▼ディラックさん(10月3日)の義理の兄。義兄弟でノーベル物理学賞を受賞。

ユージン・ポール・ウィグナー Eugene Paul Wigner 1902-1995 物理学者。

1902年、オーストリアのブタペスト生まれ。ユダヤ人。
教育
1911年(9才)家庭教師に学ぶ。
1913年(11才)結核の診断で6週間サナトリウムに入る。誤診とわかり家に戻る。
1914年(12才)WWI。
1915年(13才)ギムナジウム Fasori Evangélikusに入学。1学年下にノイマンさんがいて一緒に数学の授業を受ける。
1918年(16才)WWI終戦。
1919年(17才)ギムナジウムを卒業。ユダヤ人への圧政のため一時的に近隣国に避難、
1920年(18才)ブダペスト工科経済大学に入学。履修科目が意に添わなかったので退学。
1921年(19才)ベルリン工科大学に入学、化学を学ぶ。ドイツ物理協会の水曜コロキウムに参加、プランクさん、ラウエさん、ハイゼンベルクさん、パウリさん、アインシュタインさん、レオ・シラードさんらと交流。
フリッツ・ハーバー研究所で DSc。指導教員はマイケル・ポランニー先生。
活動
ベルリンからブダペストに戻り、一時的に父親の皮なめしの仕事を手伝う。
1926年(24才)ベルリン工科専門大学で助教授。カイザー・ヴィルヘルム物理化学研究所で研究員。
1927年(25才)Wigner D-matrix を発表。
1928年(26才)H・ワイルさんと共著で教科書Group Theory and Quantum Mechanicsを執筆。
1929年(27才)ノイマンさんと共著で3本の論文を発表。
1930年(28才)ノイマンさんと共にプリンストン大学で1年間授業を担当。その後5年契約で客員教授。
1931年(29才)Wigner’s Group Theory and Its Application to the Quantum Mechanics of Atomic Spectra を発表。
1934年(32才)プリンストンにいるとき、妹をP・ディラクさんに紹介。二人は結婚。
1936年(34才)ウィスコンシン大学で教授(物理学)。
1937年(35才)アメリカ市民になる。親を呼び寄せる。
1938年(36才)プリンストン大学で教授(数学)。
1939年(37才)WWII。レオ・シラードさん、アインシュタインさんらと共にルーズベルト大統領に原爆製造を促す文書を提出。マンハッタン計画に参加。
1942年(40才)マンハッタン計画で担当した原子炉シカゴ・パイル1で核連鎖反応を達成。
1945年(43才)WWII終戦
1946年(44才)オークリッジ国立研究所の所長(47年まで)。
1947年(45才)プリンストン大学に戻る。Wigner–Eisenbud R-matrix 理論を発表。
1963年(61才)ノーベル物理学賞を受賞。
1971年(69才)プリンストン大学を退職。
1995年(93才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Eugene_Wigner
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%BC

L・マイトナーさんと同時代の科学者(23) P・ディラックさん

▼シュレーディンガーさん(10月2日)と同時にノーベル物理学賞を受賞した理論物理学者。受賞理由は「原子の理論における新しい生産的な理論形式の発見」。
▼愉快なエピソードを持つ。あまりにもディラックさんが喋らないのでケンブリッジ大学の同僚が寡黙ぶりの単位にディラック「1時間につき1単語」を作った。▼ニールス・ボーアさん(1885-1962)が、文をどう終わらせれば良いか分からないとこぼしているのを聞いて、「私は学校で終わらせ方を決めずに文を書き始めてはいけないと習いました。I was taught at school never to start a sentence without knowing the end of it.」と言った。
▼オッペンハイマーさん(1904-67)が詩を書くことについて「物理は難しいことを簡単に分かるようにする、詩は簡単なことを分かりにくくする。反対だね。The aim of science is to make difficult things understandable in a simpler way; the aim of poetry is to state simple things in an incomprehensible way. The two are incompatible.」と言った。

ポール・エイドリアン・モーリス・ディラック Paul Adrien Maurice Dirac 1902-1984 理論物理学者
1902年、イギリスのブリストル生まれ。父はスイス人、フランス語教師。母はイングランド人で図書館員。父と会話するときはフランス語という決まりになっていた。喋れないので寡黙が身に着いた。
教育
1914年(12才)WWI。マーチャント・ヴェンチャラーズ・スクールに入学。首席。
1918年(16才)WWI終戦。マーチャント・ヴェンチャーラーズ・カレッジに入学。工学を学ぶ。
1919年(17才)一家でスイス国籍からイギリス国籍に変更。
1921年(19才)ブリストル大学に入学。電気工学と数学を学ぶ。
1923年(21才)ブリストル大学で学士(数学)。
1925年(23才)ケンブリッジ大学に入学。ラルフ・ファウラー先生の影響で量子力学に興味。
1925年(23才)ハイゼンベルクさんの行列力学を発展。
1926年(24才)波動力学と行列力学の等価性をシュレーディンガーさんとは別に証明。
1928年(26才)ディラック方程式。
1929年(27才)ケンブリッジ大学でPhD。指導教員はファウラー先生。テーマは「量子力学」。日本で開催される学会にハイゼンベルクさんと船で移動。
活動
1929年(27才)米ウィスコンシン-マディソン大学で visiting professor。
1932年(30才)ケンブリッジ大学のルーカス教授(数学)。
1933年(31才)ノーベル物理学賞をシュレーディンガーさんと同時受賞
1937年(35才)友人の物理学者ユージン・ウィグナーさんの妹と結婚。人に奥さんを紹介するとき「ウィグナーの妹で今は私の妻を紹介します。Allow me to present Wigner’s sister, who is now my wife」と言っていた。
1939年(37才)WWII
大戦中、遠心分離機を使ったウラン濃縮に関する理論と実験研究を指揮。
1945年(43才)WWII終戦
1952年(50才)コプリ・メダル受賞。
1969年(67才)ケンブリッジ大学を退職。
1970年(68才)フロリダ州立大学でVisiting Professor。
1972年(70才)フロリダ州立大学で教授。土地と気候が合ったので気持ちよく過ごし、以前より社交的になる。84年まで60本の論文を発表。
1984年(82才)フロリダで死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Dirac#Lucasian_Chair
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF

L・マイトナーさんと同時代の科学者(22) E・シュレーディンガーさん

▼マイトナーさん(1878-1968)がウィーン大学に入ったのが23才(1901)。ボルツマン先生の講義を聞いて感動する。その印象が強く残り、後年ベルリン大学でマックス・プランク先生に会ったとき、ちょっと残念な印象を持ってしまうほどだった(時間が経つうちプランク先生の持ち味を理解することになるが)。
▼マイトナーさんにかくも強烈な印象を残したボルツマン先生は鬱病を抱えていた。マイトナーさんが28才(1906)で博士号を取得した年にボルツマン先生は自殺してしまう。
▼その年にウィーン大学に入学したのがシュレーディンガーさん(19才)。シュレーディンガーさんはボルツマン先生の後任のハーゼノール先生(1874-1915)からボルツマン先生の話を聞いて、これこそ自分の求める道と悟り理論物理学への道を志す。なぜハーゼノール先生がシュレーディンガーさんを動かすほどボルツマン先生の話ができたかというと、弟子だったから。
▼第一次世界大戦にシュレーディンガーさんもハーゼノール先生も軍人として参加。ハーゼノール先生は戦死してしまう。続く第二次世界大戦ではナチスの圧迫を受ける。マイトナーさんと同様、二回の世界大戦の苦汁を嘗めている。46才のときノーベル物理学賞を受賞。

エルヴィン・シュレーディンガー Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger 1887-1961 理論物理学者。

1887年、ウィーン生まれ。
教育
1906年(19才)ウィーン大学に入学。ボルツマン先生(9月9日)が自殺。後任にF. ハーゼノール先生が着任。ハーゼノール先生からボルツマン先生の話を聞いたことにより理論物理学者の道を歩む。
1910年(23才)ウィーン大学で博士。指導教員は ハーゼノール先生。
1911年(24才)ウィーン大学でエクスナー先生に実験物理学を習う。
1914年(27才)教授資格を取る。
1914年(27才)WWI
1915年(28才)オーストリア・ハンガリー帝国陸軍の将校になって戦地を転々とする。ハーゼノール先生は1914年に対イタリア戦で戦死。
1918年(31才)WWI終戦
活動
1920年(33才)イエナ大学でエクスナー先生の助手。 Stuttgartでassociate professor。
1921年(334)チューリッヒ大学でラウエさん(9月17日)の後任になる。数学者のヘルマン・ワイルさんと親しく交流。波動力学の研究を進めたほか量子力学の確立に貢献。
1925年(38才)シュレーディンガー方程式を導き出す。量子力学の基礎方程式となる。
1927年(40才)ベルリン・フリードリヒ・ウィルヘルム大学でマックス・プランク先生(9月9日)の後任(33年まで)。
1933年(46才)ナチスの反ユダヤ主義から逃れるためドイツを出る。オックスフォード大学マグダレンカレッジのフェローになる。
1933年(46才)イギリスの理論物理学者ポール・ディラックさんと共にノーベル物理学賞を受賞
1934年(47才)渡米。プリンストン大学で講義。
1935年(48才)「シュレーディンガーの猫」の思考実験を提唱。
1936年(49才)オーストリアのグラーツ大学で教授。
1937年(50才)マックス・プランク・メダル受賞。
1938年(51才)ナチスがオーストリアを併合。グラーツ大学教授を解任。
1939年(52才)WWII。アイルランドに移住、ダブリン高等研究所で研究生活。
1945年(58才)WWII終戦
1948年(61才)アイルランド市民になる。
1955年(68才)ダブリン高等研究所を定年退職。
1956年(69才)オーストリアに戻る。ウィーン大学の教授。
1958年(71才)『精神と物質』を出版。
1961年(74才)死去。

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