L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(3) ヘルマン・エミール・フィッシャーさん

前回の話:1907年、29才のリーゼ・マイトナーさんはベルリンでM・プランク先生の講義の聴講を認められる。並行してベルリンでの自分の研究場所探しを始める。

今回の話:ベルリンでの居場所探しの結果、オットー・ハーンさん(8月24日)という同年齢の化学者とベルリン大学構内で共同研究を行う話がまとまる。但し、ハーンさんのボスのエミール・フィッシャーさんは、女性の研究所の出入りを禁止。実験は研究所の地下の木工作業所で行うという条件がついた。しかし、二人の放射線の共同研究が成果を出すようになると、フィッシャー先生はマイトナーさんに研究所の出入りを認め、援助もするようになる。

フィッシャー先生のご専門は?
有機合成化学。グルコースなどの糖やカフェインなどのプリンを合成した。プリンという用語もフィッシャー先生の命名。プリンPurinは、ラテン語の純粋なpurumと尿酸uricumの合成語。

マイトナーさんとはどんな関係?
マイトナーさんにとってフィッシャー先生は、共同研究相手であるハーンさんの上司、しかも化学部長という偉い立場だったのでマイトナーさんは気を使ったことだろう。最初は研究所本体への立ち入りが禁止されるほどクールな扱いだった。しかし、マイトナーさんが成果を出すにつれ態度が軟化する。成果を出すことが分かれば、男と女の違いで差別する人ではなかった。結果、マイトナーさんにとって木工作業所時代は人との交流も活発で楽しく過ごせたようだ。

どんな人生?
フィッシャー先生の師匠にあたるフォン・バイヤー先生との出会いが専門の道を決めた。二人ともノーベル化学賞を取るのだから、なんというすごいレベルであろうか。不思議なことに受賞の順番が弟子、3年後に師匠だ。ここまではポジティブな話。次から悲しい話。マイトナーさんが木工作業所を出たのが1912年、それから2年後の1914年にWWIが始まる。3人息子の2人を戦争のために失う。WWI終戦の翌年、自殺。

ヘルマン・エミール・フィッシャー Hermann Emil Fischer 1852–1919
化学者。
1852年、ドイツのケルン生まれ。父は実業家。
教育
少年時代、家庭教師と学校の両方で学ぶ。
1871年(19才)父は息子を跡継ぎにしようと試みたもののビジネスの適性がないと判断。大学進学を認める。
1872年(20才)化学を学ぶためボン大学に入学。物理志望に替え、ストラスブール大学に転学。
1874年(22才)指導教員アドルフ・フォン・バイヤー先生の影響で化学を専門にする。ストラスブール大学で博士号を取得。
1874年(22才)同大学のアシスタント・インストラクターになる。
活動
1875年(23才)フォン・バイヤー先生がリービッヒ先生の後任としてミュンヘン大学に転任するので助手(有機化学)としてついていく。
1878年(26才)ミュンヘン大学のAssociate Professor 。
1879年(27才)ミュンヘン大学の助教授(分析化学)。
1881年(29才)エアランゲン大学の教授(化学)。
1882年(30才)プリンの研究に着手。
1884年(32才)プリン (purine) と命名。糖の研究を開始。
1885年(33才)ヴュルツブルク大学の教授(化学)。
1890年(38才)グリセリンからグルコースを合成するのに成功。
1892年(40才)ベルリン大学の教授(化学)、化学部長。19年まで。
1898年(46才)プリンの合成に成功。
1899年(47才)タンパク質の研究を行う。1908年まで。
1902年(50才)ノーベル化学賞を受賞。糖類およびプリン誘導体の合成。
1905年(53才)フォン・バイヤー先生がノーベル化学賞を受賞。有機染料およびヒドロ芳香族化合物の研究。
1907年(55才)マイトナーさんとオットー・ハーンさんとの共同研究開始を承認。但し、実験は地下の木工作業所、研究所には立入らない条件
1912年(60才)マイトナーさんとハーンさんの研究の成果を認め研究所の立ち入りを許す。カイザー・ヴィルヘルム研究所が開設されたのでマイトナーさんはそちらに移る。
1914年(62才)WWI。3人息子のうち一人は戦死、一人は訓練中に自殺。
1918年(66才)WWI終戦
1919年(67才)自殺。死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC
https://www.nobelprize.org/prizes/chemistry/1902/fischer/biographical/

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(2) マックス・プランクさん

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物の2回目はマックス・プランクさんだ。
まず、前回の続きからプランクさんに出会うまでのマイトナーさんの歩みを確認しよう。
1901年(23才)ウィーン大学でL・ボルツマン先生(9月8日)の講義を受講。
1906年(28才)ウィーン大学で女性で4人目となる博士号を取得。ボルツマン先生が死去。ウィーンにいても研究者になる道が開けそうにない。そこでヨーロッパの科学の中心地ベルリンに行って、過去に一度会ったことがあるM・プランク先生を訪ね、講義を受講しようと決意。
1907年(29才)ベルリンに出てM・プランク先生と面談、聴講を認められる。マイトナーさんは聴講と並行してベルリンで自分の研究場所探しを始める。

プランク先生のご専門は?
まだプランクさんがミュンヘン大学に入学したばかりの新入生で、熱力学をやりたいと考えていた頃の話。
同大学のP・フォン・ジョリー先生は「この分野の研究はほぼやり尽くされているから、できることは残った小さな穴を埋めることくらいだよ」とアドバイス。それに対しプランクさんは「僕は新発見をしたいのではありません。熱力学の基礎をしっかり理解したいのです」と回答。その言葉通り、熱したプラチナを通過させた水素の拡散実験を続け、理論物理へと進んだ。量子論の父と称される。

どんな関係?
最初はプランク先生がウィーンから来たマイトナーさんの聴講希望を受け入れ。
プランク先生は特別優秀な女性でなければ研究の道を開く必要はないと考えていた。しかし、マイトナーさんの優秀さを認めたことと、共に音楽好きもあって、次第に親しみを持つようになる。
両者とも時期の違いはあるけれどカイザー・ヴィルヘルム研究所で研究している。
そして共に第二次世界大戦のナチスドイツで大変な目に遭っている。マイトナーさんが故郷を出てベルリンを目指す目標としてプランク先生を選んだのは正解だった。

どんな人生?
少年時代からいつも戦争の影がつきまとう人生、と言える。学問と音楽の才能に恵まれ、仕事でも余暇でも充実した人生を過ごした。ドイツの愛国者だが、ナチスとは合わなかった。カイザー・ヴィルヘルム研究所を運営していたとき、ユダヤ人研究者が追放されるのを見てヒトラーに直訴するが状況は変わらないままだった。さらに息子がヒトラー暗殺事件に関わっり処刑されたため、国賊の父とまで言われて非難される。第二次大戦が終われば立場は逆転。世間の手のひら返しも経験している。ひどい環境の中でも研究は滞ることなく量子力学の父と称され、ノーベル賞も受賞する。けた違いの器量の人物である。

マックス・プランク Max Karl Ernst Ludwig Planck 1858-1947
ドイツの物理学者。
1858年、ドイツのキール生まれ。父はキール大学の教授(法学)。
1864年(6才)第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争。日常的に軍楽隊の音楽が鳴る。
1867年(9才)一家でミュンヘンに転居。ピアノ演奏に才能を見せる。音楽を一生の趣味とする。
教育
1867年(9才)マクシミリアン・ギムナジウムに入学。教師から天文学、機械学、数学、エネルギー保存則を教えてもらう。
1874年(16才)ミュンヘン大学に入学。熱力学を専攻。
1877年(19才)ベルリンにあるフリードリヒ・ヴィルヘルム大学に留学。ヘルムホルツ先生やキルヒホフ先生と出会う。
1879年(21才)熱力学の第二法則をテーマにした論文で博士号を取得。
活動
1880年(22才)教授資格を取得。無給の講師になる。
1885年(27才)キール大学のassociate professor(熱力学)。
1889年(31才)フリードリッヒ-ヴィルヘルム大学でキルヒホッフ先生の後任になる。
1892年(34才)フリードリッヒ-ヴィルヘルム大学の正教授になる。
1899年(41才)光の最小単位に関する定数「プランク定数」を発表。
1900年(42才)放射に関するプランクの法則を発表。後にアインシュタインさん、ボーアさんが発展・確立する量子力学の基礎を築く。
1907年(49才)マイトナーさんの弟子入りを受け入れる
1909年(51才)コロンビア大学に招待され講義を行う。
1913年(55才)ベルリン大学の総長。
1914年(56才)WWI
1914年(56才)ドイツの戦争を支援する「世界文明への宣言」に署名。
1918年(60才)ノーベル物理学賞を受賞。エネルギー量子の発見による物理学の進展への貢献。
1918年(60才)WWI終戦
1926年(68才)王立協会外国人会員に選出。
1929年(71才)コプリ・メダル受賞。
1930年(72才)カイザー・ヴィルヘルム研究所の所長。
1933年(75才)ユダヤ人学者の追放についてヒトラーに直接抗議。
1939年(81才)WWII
1943年(85才)ベルリン空襲で自宅を失う。
1944年(86才)次男がヒトラー暗殺計画に関わり逮捕。翌年処刑。国賊の父と言われる。
1945年(87才)WWII終戦
1946年(88才)カイザー・ヴィルヘルム研究所の名誉総裁。
1947年(89才)カイザー・ヴィルヘルム研究所がマックス・プランク研究所に改名
1947年(89才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Max_Planck
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF#:~:text=%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92,%E8%80%85%E3%81%AE%E4%B8%80%E4%BA%BA%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(1) ルートヴィッヒ・ボルツマンさん

▼マイトネリウムMtは、1982年にドイツの重イオン研究所GSIが発見した。GSIは高エネルギー加速器を使い、1981年にボーリウムBh、1984年にハッシウムHs、1994年にダームスタチウムDsとレントゲニウムRg、そして1996年にコペルニシウムCnを発見している。
▼マイトネリウムの名前の由来は、プロトアクチニウムPaの発見者リーゼ・マイトナーさん(8月23日)である。
マイトナーさんは、核物理学のパイオニアであるだけでなく、女性が大学で専門を学びその後のキャリアを開拓するパイオニアであり、第一次と第二次の二つ大戦を生き延びたユダヤ人である。マイトナーさんの人生は山あり谷ありの連続である。その歩みを見ると独特の人間味が感じられ、率直に言って素晴らしい。そこで、マイトナーさんの歩みに影響した人物を20名とりあげ、どんな作用反作用が起きたのかをみていこう。

▼マイトナーさんの復習:1878年、ウィーン生まれ。ユダヤ系の家庭。父は弁護士。8人兄弟。ギムナジウムは女性の入学を認めていなかった時代。
小学校、高等小学校で学ぶ(学問的には回り道)。
1892年(14才)高等小学校を卒業。フランス語教師になり収入を得る。
1899年(21才)フランス語教師を辞め入試勉強を開始。
1901年(23才)大学入学資格試験に合格、ウィーン大学に入学。L・ボルツマン先生(58才)の講義に感銘を受ける。

ボルツマン先生のご専門は?
気体の分子論、熱力学、統計力学を専門とした物理学者、哲学者。エントロピーや原子を概念から統計力学から見直して実在のものと考えた先駆的な科学者。

どんな関係?
熱い講義を行う先生と受講生の関係。マイトナーさんがウィーン大学に入学したとき、ボルツマン先生がちょうどウィーン大学に赴任するタイミングだった。ボルツマン先生の講義は学生に人気で、受講したマイトナーさんも後々までその講義を賞賛した。

どんな人生?
初中等教育は家庭で両親に学ぶ。高校はリンツ。大学はウィーン大学。 ヨーゼフ・シュテファン先生に評価され、助手にしてもらった後、電磁気学のマクスウェルさんを紹介されたり、就職先を世話してもらう。シュテファン先生が退任した後、後継者になる。師匠との関係は非常に恵まれている。また、ブンゼンさん、キルヒホッフさん、ヘルムホルツさん、マクスウェルさんらと学問的交流を盛んに行い、新理論の開拓を進めた。

年表
ルートヴィッヒ・エードゥアルト・ボルツマン Ludwig Eduard Boltzmann
1844年、ウィーン生まれ。 父は税務官。
教育
教育は両親から受ける。
作曲家でオルガニストのアントン・ブルックナーにピアノを習う。生涯、ピアノ演奏をたしなむ。
リンツ高校に入学。
1863年(19才)ウィーン大学に入学。数学と物理学を学ぶ。
1866年(22才)ウィーン大学で博士号を取得。
1867年(23才)物理学者ヨーゼフ・シュテファン先生の助手になる。先生からマクスウェルの学問を紹介される。
活動
1869年(25才)シュテファン先生の推薦でグラーツ大学の教授(数理物理学)。R・ブンゼンさんと知り合う。
1871年(27才)ベルリンでG・キルヒホッフさんやH・ヘルムホルツさんと知り合う。
1872年(28才)熱現象の不可逆性を証明。
1873年(29才)ウィーン大学の教授(数学)。(76年まで)
1876年(32才)グラーツ大学の教授(実験物理学)。
1877年(33才)ボルツマンの関係式やボルツマン定数を発表。
1884年(40才)シュテファン=ボルツマンの法則を発表。
1887年(43才)グラーツ大学の学長。
1890年(46才)ミュンヘン大学の教授(理論物理学)。
1894年(50才)シュテファン先生の後継者としてウィーン大学の教授(理論物理学)になる。
1900年(56才)ライプツィヒ大学の教授。
1901年(57才)マイトナーさんがウィーン大学に入学。
1902年(58才)再度、ウィーン大学の教授(理論物理学)。
1906年(62才)マイトナーさんがウィーン大学から博士号を取得。
1906年(62才)双極性障害。死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%B3https://en.wikipedia.org/wiki/Ludwig_Boltzmann

ニッケルNiの発見者 A・クルーンステットさん

▼ニッケルという言葉は、ドイツ語で「悪魔の銅」を意味するKupfernickelから来たもの。Kupferは銅copperのことなので、nickelは「悪魔の」という意味になる。なぜそんな表現になったのかというと、銅鉱石に似ているので冶金師たちが銅を取り出そうとする。しかし実はニッケル鉱石なので銅は出てこない。それで悪魔にたぶらかされた、といってKupfernickelと呼んだ。ニッケルにとっては迷惑な話だ。
▼発見者のクルーンステットさんの父親はスウェーデン軍に所属する技術者で、軍命で鉱物調査をしたとき一緒について回ったことがある。実際に鉱山を回った経験から、鉱物への関心が高まった。子供の頃から科学少年だったので、予備知識は十分あったところに現場を見て刺激されたのだろう。
▼調査から戻ったあとウプサラ大学でG・ブラント先生の下できっちり化学を学ぶ。見逃せないのは吹菅 blowpipeで鉱物から元素を発見する手法を開拓したことだ。クルーンステットさんも自分の方法論をもっていたことがニッケル発見につながった。人と同じ方法で同じ対象物を分析しても出てくる結果は同じだ。しかし、違う方法を持つと違う結果を導き出せる可能性がある。

アクセル・フレドリク・クルーンステット Axel Fredrik Cronstedt  1722-1765
スウェーデンの化学者、鉱物学者

1722年、スウェーデンのストレープスタ生まれ。父は軍所属の技術者。
教育
1738年(16才)ウプサラ大学の非登録学生として化学のJ・G・Wallerius先生や天文学のA・Celsius先生の講義を聞く。
1743年(21才)父の秘書として軍の調査活動に参加。鉱山や鉱物への関心が高まる。
1746年(24才)ウプサラ大学に入学しコバルトCoの発見者イェオリ・ブラント先生(9月6日)の元で化学と試金法を学ぶ。
1748年(26才)ウプサラ大学を卒業。
活動
吹菅 blowpipe を使った元素分析法を開拓
1751年(29才)吹菅分析法で灰重石(タングステン)を発見
1751年(29才)ニッケルNiの単離に成功
1754年(32才)ニッケルと命名。ドイツ語で悪魔の銅 Kupfernickel が由来。銅鉱石と似ているのに銅を取り出せなかったから冶金師が悪魔の仕業と考えた。
1756年(34才)「ゼオライト」を造語。
1758年(36才)鉱山局の鉱業監督になる。
1765年(43才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Axel_Fredrik_Cronstedt
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%83%E3%83%88
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AB

コバルトCoの発見者 G・ブラントさん

▼コバルトは、顔料コバルトブルーの原料、青いガラスなどで身近な元素。コバルトブルーやガラスに添加すると青い色になるのを発見したのもブラントさん。▼ブラントさんに関する情報は少ない。日本語ウィキペディアでは職業を「鉱山局の役人になり後に王立造幣局の冶金部長」と書いていて、ウプサラ大学の教授と書かれていない。一方、英語ウィキペディアにはウプサラ大学の教授と書いていて鉱山局の役人の話はない。日本語の説明と食い違いを見つけると面白くなる。
▼10年くらい前、ウィキペディアは信用ならないから引用してはダメと否定する見方もあった。でも本の辞典は情報にアクセスする手間が大変で、アクセス先から関連情報に飛ぶのはさらに手間がかかる。ウィキペディアはリンクで簡単に知りたい項目に飛んでいける。毎日お世話になっていて本当にありがたい存在なので、ウィキペディアから寄付のお願いメールが来たら少額寄付している。
▼鉱山局の役人になったのは、ウプサラ大学でブラント先生の指導を受けたA・クルーンステットさんだ。クルーンステットさんはニッケルの発見者として歴史に名を残している人物だ。

イェオリ・ブラント Georg Brandt 1694-1768 スウェーデンの化学者、鉱物学者

1694年、スウェーデンのヴェストマンランド県生まれ。父親は元薬剤師の鉱山経営者。
教育
ライデン、ランスで医学・化学を、ハルツで冶金術を学ぶ。
活動
1727年(33才)ストックホルムの鉱山局に入る。 ←正確さに疑問あり
172?年(??才)王立造幣局の冶金部長になる。 ←正確さに疑問あり
1730年(36才)ヴェストマンランド鉱山の鉱石からコバルトを成分とするブルーの顔料を精製
1737年(43才)コバルトCoを発見。抽出した鉱石の名前からコバルトと命名。
17??年(??才)ウプサラ大学の教授(化学)になる。 ←年代の特定ができない
1768年(74才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88

クロムCrとベリリウムBeの発見者 L・ヴォークランさん

▼14才から薬局に弟子入りして専門知識をため、専門家の中で力をつけた叩き上げの人。フランス革命では危険を避けて一時期海外に退避。戻ってくるのはフランス革命終了前だが、ラボアジェさんのようなひどい目には遭ってないようだ。▼20才でフールクロア先生の助手になったこと(25年後には後継者になる)、28才でフランス科学アカデミーの会員になって、化学雑誌の編集に携わり、多くの研究者や専門家と知り合ったことがキャリア作りに影響している。ヴォークランさんの生き方を見ると「いつ・どこにいて・誰と・何をしたか」が大事だ、と認識させてくれる実例だ。
▼無機の分野ではクロムとベリリウムの発見、有機の分野ではアスパラギンの発見、と両方の分野で新発見している幅の広さも見逃せない。アスパラギンは助手の功績が大きかったので、チーム作りや人間関係調整力にも優れていた。
▼弟子入り修業でスタートして、成果を出す生き方ができるのだから、知識を獲得する道筋はいろいろある、と気づかせてくれる。

ルイ=ニコラ・ヴォークラン Louis-Nicolas Vauquelin 1763-1829 フランスの薬剤師、化学者。
1763年、フランスのノルマンディ生まれ。
教育
1777年(14才)ノルマンディの中心地ルーアンにある薬局で弟子修業を開始。
活動
1783年(20才)パリに行き、フランスの化学者A・フールクロアの助手になる。(91年まで)
1789年(26才)フランス革命が始まる。
1790年(27才)単著論文の発表を始める。
1791年(28才)フランス科学アカデミーの会員になる。「化学分析」誌の編集に携わる。
1791年(28才)フランス革命が激しさを増したので海外に逃れる
1794年(31才)帰国。鉱山学校とポリテク学校の教授(化学)になる。
1797年(34才)クロムCrを発見。シベリアで採られた赤い鉛鉱石から単離。化学者のR・アユイ氏がギリシャ語の色chrōmaにちなんで命名。クロムはステンレスやメッキに欠かせない重要元素。無害な元素だが、六価クロムは猛毒。
1798年(35才)ルビーの赤、エメラルドの緑は、クロムの存在によることを発見。
1798年(35才)ベリリウムBeを発見。緑柱石berylから抽出されたのでギリシア語beryllosで命名。命名者はクラプロートさん(7月14日)。ベリリウムは硬度の高い合金を作るときの材料として貴重な元素。
1799年(36才)フランス革命が終わる
1806年(43才)助手のP・ロビケ氏とアスパラギンを発見。アスパラガスの汁から結晶を単離。
1809年(46才)フールクロアさんの後継者としてパリ大学の教授になる。
1816年(53才)スウェーデン王立科学アカデミーの会員になる。
1828年(65才)下院議員になる。
1829年(66才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Nicolas_Vauquelin
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%EF%BC%9D%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B3

硫黄Sを単離した A・ラボアジェさん

▼硫黄Sは昔々の時代から人が便利に使ってきた元素。だから特定の発見者はいない。ラボアジェさんは単離に成功したフランスの化学者である。
▼ラボアジェさんは、化学実験は趣味、税金の徴収が仕事、と割り切って生活した人。実家は裕福なのに、働くことを厭わないのは分かるとして、なぜ取り立てた税金を着服するような悪人がいて世間の評判もよくない取税人になったのか、そこは意味不明。
▼お嫁さんは国の税金徴収部門の高官の娘。この人が素晴らしくて、夫の研究が進むように、語学を学んで夫が必要とする外国文献や手紙を翻訳したり、実験の様子を正確な図にするためイラストを学んだり(図はwikipediaで見られます)、夫がやっていることを理解するため化学を学んだりする。結果、これ以上ない右腕になる。
▼ラボアジェさんは論理的な仮説を設定すると、ひたすら実験を重ねて実証的に仮説の正しさを確認するタイプ。それまでの前提となっていた概念が、実験結果と合わないことが分かると忖度せず新概念を提唱する。近代化学の父と言われるゆえんだ。

アントワーヌ=ローラン・ド・ラボアジェ Antoine-Laurent de Lavoisier
1743-1794
1743年、パリ生まれ。父は裕福な弁護士。
教育
1754年(11才)マザラン学校に入学。化学、植物学、天文学、数学を学ぶ。
1761年(18才)マザラン学校を卒業。
1761年(18才)パリ大学法学部に入学。
1763年(20才)パリ大学法学部で学士号を取得。
1764年(21才)弁護士試験に合格、高等法院法学士になる。
活動
1766年(23才)フランス科学アカデミーの懸賞論文で1等賞を獲得。ルイ15世から金メダルを授与。
1768年(25才)フランス科学アカデミーの会員になる。
1768年(25才)徴税請負人となる。
1771年(28才)徴税請負人長官の娘マリーさんと結婚。マリーさんは英語・ラテン語・イタリア語・化学・絵画の描き方を習得して夫の研究を応援。
1772年(29才)貴族の地位を購入。
1774年(31才)化学反応の前後で質量が変わらない「質量保存の法則」を発見。
1775年(32才)火薬硝石公社の火薬管理監督官になる。
1776年(33才)砲兵工廠に移り実験室を開設。
1777年(34才)硫黄Sの単離に成功。英語のsulfurはラテン語の硫黄sulpurに由来。
1779年(36才)燃焼を助ける気体に「酸素」と命名。
1789年(46才)「化学原論」を出版。十年に渡りヨーロッパで教科書として使用。
1789年(46才)フランス革命。バスティーユ襲撃事件が発生。
1791年(48才)徴税請負制度が廃止。国家財政委員に任命。
1792年(49才)政府関係の職をすべて辞任、実験に専念する。
1793年(50才)革命政府から徴税請負人の娘と結婚していたことなどを理由に投獄。
1794年(51才)科学に敵愾心を持つ革命政府の裁判官によってギロチンで処刑。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A8

ゲルマニウムGeの発見者 ヴィンクラーさん

ゲルマニウムGeは「ゲルマニウムラジオ」で一時期、広く親しまれた元素。1940年代は、トランジスタの素材として使われ、コンピュータの発達に画期をもたらした。世のため人のために仕事をする元素である。
▼それだけではない。ゲルマニウムは発見された時点から、人の役に立っている。というのは、メンデレーエフさん(8月31日)の周期表の信頼性が確かなものであることを化学者に知らしめたから。もちろん、知らしめたのはゲルマニウム発見者のヴィンクラーさんのち密な分析とその報告によってだけどね。
▼大量の鉱石を砕いて未知の元素を探し当てるプロセスをこなすには、専門知識に加えて力と根気とち密さが必要。加えてヴィンクラーさんは仕事の合間に詩を書き、楽器の演奏も楽しむキャパシティを備えた人物である。

クレメンス・アレクサンダー・ヴィンクラー Clemens Alexander Winkler 1838-1904 ドイツの化学者。

1838年、ドイツのザクセン州フライベルグで生まれる。
フライベルグ、ドレスデン、Chemnitzの学校で学ぶ。
教育
1857年(19才)フライベルク工科大学に入学。カリキュラムの想定を増えるほど分析化学の知識が増える。
1859年(21才)フライベルク工科大学を卒業。
1864年(26才)ライプツィヒ大学院を修了。
活動
1864年(26才)フライベルク工科大学の教授(無機化学)。
1886年(48才)ゲルマニウムGeを発見。ドイツの古名ゲルマニア (germania) にちなんで命名。メンデレーエフさんの周期表の予言が最初に実現した元素。
1892年(54才)スウェーデン王立科学アカデミーの会員になる。
1902年(64才)大学を退職。
1904年(66才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC
https://en.wikipedia.org/wiki/Clemens_Winkler

ガリウムGa・サマリウムSm・ジスプロシウムDyの発見者 P・ボアボードランさん

コニャック製造を営む家に生まれる。家業を継いだ時期もあったようだが本質は実験物理化学者だ。キルヒホッフさんとブンゼンさんが分光手法を始めたという話に興味を持ち、同じ年のうちにマイ実験室を作って研究を始めている。それが21才の話。それから15年後に自分の手で分光学の専門書を出版している。時間がかかっても手がけたことを形にするまで続ける力がすごい。▼34才の時、メンデレーエフさんが周期表を発表する。それから3年後、メンデレーエフさんが予言したとおりガリウムを発見する。このときの手法が分光法。▼ガリウムの発見は、周期表と分光法をボアボードランさんが「新結合」した成果だ。新結合とは、すでにあるものを結合させて新しい価値を生み出すやり方。

ポール・ボアボードラン Paul Emile Lecoq de Boisbaudran 1838-1912
フランスの物理化学者。
1838年、フランスのコニャックで生まれる。実家はコニャックの酒造所。
1859年(21才)キルヒホフさん(7月10日)とブンゼンさん(7月9日)が分光学の研究を始める。パリで小さな私設実験室を作って分光実験を行う。
教育
1866年(28才)エコール・ポリテクニークで物理と化学を学ぶ。
活動
1872年(34才)メンデレーエフさん(8月31日)が周期表を元に「未知の元素」としてガリウムなどの存在を予言。
1874年(36才)分光学の研究書を発行。
1875年(37才)分光学の手法を使いメンデレーエフさんの予言通りガリウムGaを発見。周期表が評価されるきっかけとなる。フランスのラテン名ガリア Gallia にちなんで命名。
1880年(42才)サマリウムSm発見。名称はサマルスキー石から発見されたことに由来。
1886年(48才)ジスプロシウムDy発見。分離抽出するまでおそろしく手間がかかったため、ギリシア語の「近づき難い」を意味するdysprositosから命名。
1912年(74才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%82%A2%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3#:~:text=%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%82%A2%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%EF%BC%88%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB,%E3%81%AF%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%8C%96%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%80%82
https://fr.wikipedia.org/wiki/Paul-%C3%89mile_Lecoq_de_Boisbaudran

X線の発見者 W・レントゲンさん

レントゲンさんのX線の発見が原子核物理学の道を開いた。科学や技術の新発見は、正体が分からなかったものの姿を捉え、性質をはっきりさせて名前を付け、人に知させ、やがて社会の常識になる、という起承転結の流れを見せる。新発見は知識が発展する起点だ。X線はまさにその例。▼真空放電や陰極線は知られた事実だった。クルックス管(8月14日)などの放電管も出回っていた。そんな環境で、物質を透過し写真で捉えることができる波が電磁波であることをつきとめてX線と命名したがレントゲンさんだ。おかげでモヤモヤしていた現象の正体が明確になった。▼X線は発見と同時に実際に応用されて良い結果を出すことも普及の追い風になった。結晶に当てて解析に使われたり、医学用に使われた。体の中を透視できるのだから、医者にも患者にもインパクトがすごかっただろう。▼レントゲンさん本人はレントゲン線と自分の名前で呼ばれるのを好まず、X線と言っていた。第1回ノーベル物理学賞の受賞者となる。賞金は学長をつとめたことがある大学に全額寄付している。▼X線の性質が分かったことで、マリー・キュリーさんら(8月20日)による核物理学がスタートする。

ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン Wilhelm Conrad Röntgen 1845–1923 ドイツの物理学者
1845年、ドイツのレンネップ生まれ。父は織物商。裕福な家庭の一人息子。
1848年(3才)一家で母の実家があるオランダのアペルドールンに転居。
教育
1862年(17才)オランダのユトレヒト工業学校に入学。卒業目前にして高校退学になる。高校卒業資格がないためオランダの大学で聴講する。そのうちオランダのユトレヒト大学に入学する。
1865年(20才)チューリッヒ工科大学 ETH Zurichの機械工学科の入試に合格、入学。
1868年(23才)チューリッヒ工科大学の機械工学科を卒業、機械技師の免状を取得。
1869年(24才)チューリッヒ工科大学から博士号を取得。指導教員はアウグスト・クント先生。
活動
1870年(25才)ヴュルツブルク大学でA・クント先生の助手。管の定在波の検出法で有名な物理学の先生。
1872年(27才)ストラスブール大学で、クント先生の助手。独立して実験を行なう。
1874年(29才)大学教授資格を得る。
1875年(30才)ホーエンハイム農業学校で数学と物理の教授。実験の時間がないため辞める。
1876年(31才)ストラスブール大学で助教授。気体や液体の圧縮率、旋光度など15本の論文を発表。
1879年(34才)ギーセン大学で物理学の正教授。光学や電磁気学に関する研究を行う。
1888年(43才)ヴュルツブルク大学の教授。
1894年(49才)ヴュルツブルク大学の学長。
1895年(50才)放電管の実験を開始。X線を発見。
1896年(51才)妻が薬指に指輪をはめた手を撮影。
1900年(55才)ミュンヘン大学の実験物理学の主任教授。
1901年(56才)第1回ノーベル物理学賞を受賞。ヴュルツブルク大学に賞金全額を寄付。
1914年(69才)WWI。米コロンビア大学に赴任しようとしたところ戦争が勃発して断念。
1918年(73才)WWI終戦
1920年(75才)ミュンヘン大学を退職。
1923年(78才)死去。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_R%C3%B6ntgen