L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(13) カール・シーグバーンさん

前回からの続き。

1938年にコスターさんの説得に応じたマイトナーさんはスウェーデンに脱出する。スウェーデンで拠点にしたのがマンネ・シーグバーンが長を務めるスウェーデン王国科学アカデミーのノーベル研究所だった。

シーグバーンさんのご専門は?
X線分光学の功績でノーベル賞物理賞を受賞。D・コスターさん(9月19日)の師匠。
アメリカのA・ローレンスさん(8月30日)が1932年に発明した円形イオン加速装置サイクロトロンを1939年、スウェーデンで作った原子物理学者。

どんな関係?
ベルリンで窮地に陥ったマイトナーさんに脱出した後の研究活動拠点を提供した関係。ただ、日本語版ウィキペディアには「シーグバーンの研究所ではマイトナーは孤立していた」「研究所はサイクロトロンなどの大型設備が整っていたが、マイトナーに十分な実験装置や人員が与えられることはなかった」という記述がある。これを見る限りシーグバーンさんの研究所でマイトナーさんが心癒される環境で研究生活を送れたのかは疑問。

どんな人生?
X線分光学でノーベル賞学者になった後、自国で新たにサイクロトロンを作るなど挑戦マインドあふれる研究生活を送った。

カール・マンネ・イェオリ・シーグバーン Karl Manne Georg Siegbahn 1886-1978 物理学者

1886年、スウェーデンのエーレブルー生まれ。
教育
1906年(20才)20才までストックホルムで教育を受ける。
1906年(20才)ルンド大学に入学。
1907年(21才)ルンド大学でヨハネス・リュードベリ先生(物理学)の助手(11年まで)。
1908年(22才)ゴッチンゲン大学で学ぶ。
1911年(25才)ルンド大学でPhD。リュードベリ先生のもとでacting professor。
活動
1914年(28才)WWI
1914年(28才)X線分析法の研究を開始。
1918年(32才)WWI終戦
1920年(34才)リュードベリ先生の跡継ぎとしてルンド大学の教授(物理学)。ディルク・コスターさん(9月19日)にX線分光法を指導。
1923年(37才)ウプサラ大学の教授。
1924年(38才)ノーベル物理学賞を受賞。X線分光学における発見。
1937年(51才)スウェーデン王国科学アカデミーのノーベル研究所物理部の部長。
1938年(52才)ドイツから逃れたマイトナーさん(60才)がシーグバーンさんの研究所に入る。孤独感。
1939年(53才)WWII
サイクロトロンを建設。量子論と 原子物理学を発展させる。
1944年(58才)O・ハーンさん(8月24日)がノーベル化学賞を受賞。
1945年(59才)WWII終戦
1946年(60才)マイトナーさん(68才)の実験器具が自由に使える・助手がつく等、研究環境が改善される。
1952年(66才)マイトナーさん(74才)退任。
1978年(92才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Manne_Siegbahn
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3#:~:text=%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%B3,%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6%E8%B3%9E%E3%82%92%E5%8F%97%E8%B3%9E%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(12) ディルク・コスターさん

前回からの続き。

1907年から始まったマイトナーさんのベルリン暮らしは1938年、ベルリン脱出で幕を閉じる。
マイトナーさんはなかなかベルリンを離れようとしなかった。コスターさんはオランダからベルリンまで足を運び、マイトナーさんに直接、脱出しなくては危険だと納得させる。
マイトナーさんはナチスから出国禁止にされていたので、途中で捕まれば収容所行きである。休暇旅行を装いオランダ行きの鉄道に乗る。途中、ナチスの検問を受けたが奇跡的に通過。スウェーデンに脱出する。

コスターさんのご専門は?
物理学。X線分光法を使い、ニールス・ボーア研究所でヘヴェシーさん(8月8日)と共同でハフニウムHfを発見した。元素発見史に名を残している。

どんな関係?
ベルリンまで行き、マイトナーさんに脱出が必要なことを納得させて救出した。
コスターさんはニールス・ボーア研究所で働いたことがある。
マイトナーさんが脱出後の活動拠点としたスウェーデンの研究所の代表カール・マンネ・シーグバーン先生はコスターさんの指導者でX線分光法の師匠。
研究者ネットワークの仲間である。

どんな人生?
30才を過ぎて博士になる。遅咲きだけど、新元素ハフニウムを発見するなど超ラッキーな運勢の持ち主。その強運のおかげでマイトナーさんが国境を越える時、ナチスの検問を潜り抜けることができた。コスターさんは、ナチスからユダヤ人を逃がす援助を継続して行った。

Dirk Coster 1889–1950 Dutch physicist 物理学者。ハフニウムHfの発見者。

1889年、オランダのアムステルダム生まれ。父は鉄工所経営。教育重視の家庭。
教育
1904年(15才)ハーレムの教員養成学校に入学。
1908年(19才)ハーレムの教員養成学校を卒業。
1913年(24才)学校の先生になる。ギムナジウムに行ってないので大学進学に必要な試験を受けるための個人援助を受ける。
1914年(25才)WWI
1916年(27才)ライデン大学で数学と物理学を学び M.Sc. を取得。
1918年(29才)WWI終戦
1919年(30才)デルフト技術大学でW・ハース先生の助手をしながら、電気工学の技術学位を取得。
1920年(31才)ルンド大学でカール・マンネ・イェオリ・シーグバーン先生の下でX線分光法を用いた元素分析を行う。
1922年(33才)ルンド大学で Ph.D.を取得。テーマはX線分析法とボーアの原子論。指導教員はPaul Ehrenfest先生。
活動
1922年(33才)ニールス・ボーア研究所で修業。
1923年(34才)ニールス・ボーア研究所でジルコンをX線分光法で分析しハフニウムHfをヘヴェシーさんと共同発見
1924年(35才)オランダに戻りハーレムのテーラーズ博物館でH・ローレンツ先生の助手を務めながらX線分光法を発展させる。
1924年(35才)グローニンゲン大学のハース先生の後任教授として着任。
1938年(49才)ベルリンに行き、マイトナーさんに脱出が必要なことを納得させ列車でベルリンを脱出。
オランダ国境でドイツ出国審査官にマイトナーさんがオランダへの旅行許可を持っていると説得し無事、通過。通過した後、マイトナーさんはスウェーデンに逃れる。
1939年(50才)WWII
ナチスがオランダを占領している間、コスターさんはユダヤ人の脱出を援助する。
1945年(56才)WWII終戦
1950年(61才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Dirk_Coster

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(11) オットー・フリッシュさん

前回からの続き。

マイトナーさん(26才)がウィーン大学の博士課程の学生だったときに姉夫婦の息子としてオットー・フリッシュさんが誕生。
1938年、ナチスのためカイザー・ヴィルヘルム研究所にいられなくなり、ベルリンを脱出、スウェーデンのストックホルムに逃れる。荷物もなくベルリンを出たのでしばらくホテル暮らし。その後、姉夫婦のもとに身を寄せる。

フリッシュさんのご専門は?
マイトナーさんと同じ核物理学。理論と実験によって核爆弾の製造が現実的に可能であることを示した。

どんな関係?
マイトナーさんの姉がフリッシュさんの母親。叔母・甥の関係。ピアノ演奏も一緒に楽しむ。82才で引退したマイトナーさんが終の棲家に選んだのはフリッシュさん住まいの近所だった。

どんな人生?
1938年、オットー・ハーンさん(8月24日)とフリッツ・シュトラスマンさん(9月12日)がマイトナーさんに宛てた手紙(ウランに中性子を衝突させる実験結果についての謎)を一緒に読み、核分裂が起きていることを発見。
イギリスでルドルフ・パイエルス氏と核分裂の研究を行い、ウランを使った原子爆弾の実現可能性を文書にして政府に提出。イギリスでは原子爆弾製造計画(チューブ・アロイズ)、アメリカではマンハッタン計画となって現実化する。
第二次大戦後はケンブリッジで過ごす。

オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch 1904-1979 物理学者
1904年、ウィーン生まれ。ユダヤ人。父は画家、母はマイトナーさんの姉でコンサート・ピアニスト。
1914年(10才)WWI
1918年(14才)WWI終戦
教育
1922年(18才)ウィーン大学に入学。専攻を数学から物理学に変更。
1926年(22才)ウィーン大学で博士。
活動
1927年(23才)ドイツの研究所で仕事。カイザー・ヴィルヘルム研究所の幹部・ベルリン大学教授になっていたマイトナーさん(49才)を訪ね、2人でピアノを弾いたりコンサートに出かけたりした。
1930年(26才)ハンブルグ大学オットー・シュテルン先生の下で研究。シュテルン先生は1943年にノーベル物理学賞をとる。
1933年(29才)ヒトラー政権になる。シュテルン先生の紹介でロンドン大学バークベック・カレッジへ。
1934年(30才)デンマークのコペンハーゲンでニールス・ボーアさんと中性子の研究。
1938年(34才)休暇を使いスウェーデンにいたマイトナーさんを訪問。ちょうどオットー・ハーンさんの手紙からウラニウムの核分裂を発見。「ウランの原子核に中性子を衝突させるとバリウムが生まれた。理由が分からない」という内容。ここから核分裂の概念を発見。
1939年(35才)WWII。バーミンガム訪問中、開戦。現地に留まり物理学者のルドルフ・パイエルス氏と核分裂の共同研究。原爆の可能性を書いたフリッシュ=パイエルスの覚書を政府に提出。
1943年(39才)覚書がイギリスの原子爆弾製造計画とアメリカのマンハッタン計画の基礎になる。渡米しロスアラモス国立研究所へ。
1944年(40才)ロスアラモス研究所で実験。広島に投下する原子爆弾リトルボーイに必要なウランの量を決定。
1945年(41才)WWII終戦
1946年(42才)イギリスに戻り原子力エネルギー研究機構の核物理部門長。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのジャクソン教授職・フェロー。30年間在職。
1960年(56才)マイトナーさん(82才)がケンブリッジにあるフリッシュの家の近くに転居。
1968年(64才)マイトナーさんが死去(89才)。
1972年(68才)ケンブリッジ大学を退職。
1979年(75才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5https://en.wikipedia.org/wiki/Otto_Robert_Frisch

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(9) マックス・フォン・ラウエさん

前回からの続き。

28才のマイトナーさんは科学者としてのキャリアを切り拓くため、1907年に、拠点をウィーンからベルリンに移し、マックス・プランク先生に弟子入りする。
以来、1914-18年の第一次世界大戦を挟み、1933年にナチスから逃れるため、ベルリンを脱出するまでマイトナーさんはベルリンで研究生活を過ごす。

ラウエさんのご専門は?
物理学。1914年に、結晶によるX線回折現象の発見の功績でノーベル物理学賞を受賞。

どんな関係?
二人ともマックス・プランク先生の弟子であり、助手。年齢はラウエさんが1つ年下。ベルリン時代、ナチスから逃れてスウェーデンに移った後も情報交換を続けた。

どんな人生?
ナチスに振り回された。ナチスに異論を唱え主張を曲げないために損をすることも多々あった。WWIIの後、マイトナーさんと科学者の責任論で意見が食い違うこともあった。しかし、それで反目しあうこともなかった。敗戦国ドイツの学問の復興に力を注いだ外柔内剛の人。

マックス・テオドール・フェリックス・フォン・ラウエ Max Theodor Felix von Laue 1879- 1960 物理学者。
1879年、ドイツのコプレンツ生まれ。
教育
1898年(19才)高校卒業後、1年間、兵役につく。
1899年(20才)ストラスブルグ大学に入学。数学、物理、化学を学ぶ。ドイツでは他の大学の授業を受けられるので、ゴッチンゲン大学で数学のD・ヒルベルト先生、物理学のヴォルデマール・フォークト先生やマックス・アブラハム先生の影響を受ける。ミュンヘンのルードヴィヒ・マクシミリアン大学 (LMU)では1学期を過ごす。
1902年(23才)ベルリン大学で量子論に革命を起こしたM・プランク先生に師事
1903年(24才)ベルリン大学で博士号。
1903年(24才)ゴッチンゲン大学に所属。05年まで。
1906年(27才)LMUのアルノルト・ゾンマーフェルト先生の下で大学教員資格を取得。
活動
1906年(27才)ベルリン大学で私講師。プランク先生の助手になる(09年まで)。アインシュタインさんと出会って友達になる。
1907年(28才)マイトナーさんがベルリンに来てプランク先生に弟子入りし、友人になる
1909年(30才)LMUの理論物理学研究所でゾンマーフェルト先生の助手(12年まで)。
1911年(32才)X線を結晶に当てて回折写真をとる方法を開発、X線が電磁波だと示した。
1911年(32才)カイザー・ヴィルヘルム学術振興協会(後のマックス・プランク学術振興協会)が創設。
1912年(33才)ゾンマーフェルト先生が物理学会でラウエさんらによるX線回折現象の発見を報告。
1912年(33才)チューリッヒ大学の教授(物理学)。
1913年(34才)父が貴族になったのを機にマックス・フォン・ラウエと名乗る。
1914年(35才)ノーベル物理学賞を受賞。受賞理由は結晶によるX線回折現象の発見。
1914年(35才)カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所 (KWIP) がベルリン郊外に創設、アインシュタインさんが所長。
1914年(35才)WWI
1914年(35才)フランクフルト大学の教授(理論物理学)。19年まで。
1916年(37才)ヴュルツブルク大学で軍用の真空管開発に携わる。
1917年(38才)KWIPの理事。22年まで。
1918年(39才)WWI終戦
1919年(40才)ベルリン大学の教授(理論物理学)。43年まで。同僚にハーバーさん、ジェイムス・フランクさんがいた。
1922年(43才)KWIPの副所長。マイトナーさんがベルリン大学の教授マイトナーさんはラウエさん主催の水曜コロキウムに最初から参加
1933年(54才)アインシュタインさんの亡命により、KWIPの所長職の代行や所長を務める。
ナチスと国家社会主義に反対の立場。ユダヤ人のドイツ脱出を援助。
1934年(55才)ナチスの禁止命令に関わらずハーバーさんの追悼式典へ出席。
1938年(59才)マイトナーさんがドイツを脱出
1939年(60才)WWII
1940年(61才)ナチスがデンマークに侵攻。ラウエさんとJ・フランクのノーベル賞の金メダルを預かっていたボーア研究所のヘヴェシーさんがナチスに盗まれないよう王水に溶かし研究室に隠す。
1945年(66才)WWII終戦
1946年(67才)KWIPの所長に復帰。KWIPがマックス・プランク物理学研究所に改称。ゲッティンゲン大学の準教授。
1946年(67才)ヘヴェシーさんがボーア研究所に戻り王水から金を抽出、ノーベル財団が金メダルを作り直して再贈呈。
1951年(72才)マックス・プランク物理化学研究所の所長。フリッツ・ハーバー研究所に改称。
1960年(81才)交通事故の後遺症のため死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A8
https://en.wikipedia.org/wiki/Max_von_Laue

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(10) ジェイムズ・フランクさん

前回からの続き。
フランクさんはマイトナーさんと20代から共同研究を始め、死ぬまで交流が続く間柄。
マイトナーさんのベルリン時代は次。
1907-12年、ベルリン大学実験物理学研究所時代。この時から共同研究をスタート。
1912-38年、カイザー・ヴィルヘルム研究所時代。
1922-33年、ベルリン大学教授。33年、ナチス政権になり大学の職を追われる。
1934年、フランクさんがベルリンを脱出しアメリカへ。
1938年、マイトナーさんがベルリンを脱出。
・・・

フランクさんのご専門は?
原子や分子で起こるエネルギー変化の専門家。
原子と電子の衝突に関する研究でノーベル物理学賞を受賞した。
アメリカでマンハッタン計画に参加。

どんな関係?
マイトナーさんはフランクさんの4才年上。
同じ専門分野で共同研究相手。1907年からフランクさんはマイトナーさんと共同研究して論文を発表している。
同じユダヤ人でナチスから圧迫された経験を持つ者同士。WWI、WWIIを共に生き延びた仲間。
WWII後のドイツへの対応について見解が共有できる間柄。

どんな人生?
WWIでは勲章をいくつも授与される国への貢献者。しかしWWIIではナチス政権から迫害を受ける対象となる。渡米し、ナチスを倒しドイツを解放するためマンハッタン計画に参加、原爆に必要なプルトニウム生産に携わる。原爆の使い方について同じ考え方の科学者と共同して政府に提言するも採用されず。

ジェイムズ・フランク James Franck 1882-1964 物理学者

1882年、ドイツのハンブルグ生まれ。父親はユダヤ人の銀行家。
教育
1891年(9才)ウィルヘルム・ギムナジウムに入学。
1901年(19才)法学を学ぶためハイデルベルク大学に入学。科学の面白さに気づく。同級生のマックス・ボルンさんと友人になる。ボルンの助けもあり両親に専門を物理と化学に変更を許してもらう。
ハイデルベルク大学よりも物理や数学に強いベルリン大学に転学。マックス・プランク先生や Emil Warburg先生の講義に出席。
1906年(24才)ベルリン大学でDir. Phil. 指導教員は Emil Warburg先生。
1906年(24才)兵役につく。第一電信大隊。訓練中落馬事故を起こし退役。
活動
1907年(25才)フランクフルトの物理研究所でアシスタントを務めた後ベルリン大学に戻る。
ベルリン大学で大学教授資格を取るため研究と論文発表に集中。マイトナーさんと共同研究を行う。
1914年までに34本の論文を発表。その中にマイトナーさんとの共著論文がある。
1911年(29才)大学教授資格を得る。
1912年(30才)グスタフ・ヘルツさんと「フランク=ヘルツの実験」(14年まで)。原子に電子を照射する実験を行う。
1914年(32才)WWI。軍の招集で西部戦線に送られ副官として従軍。
1915年(33才)中尉になる。ハーバーさんの毒ガス開発プロジェクトに転任。O・ハーンさんと共に攻撃地を発見する任務を行い、勲章をもらう。
1916年(34才)ハンブルグ市から勲章をもらう。 胸膜炎で入院中も論文を執筆。ベルリン大学の assistant professor の指名を受ける。
1918年(36才)ロシア戦線に配属された後、赤痢になったため、毒ガス開発プロジェクトに戻りヘルツさんや若手研究者とガスマスクの開発に従事。勲章をもらい退役。
1918年(36才)WWI終戦
1918年(36才)カイザー・ヴィルヘルム研究所で研究活動を継続、活発に行う。
1920年(38才)ニールス・ボーアさんのベルリン来訪に合わせ、マイトナーさんと共同して研究所でボーアを囲む情報交換会を行う。
ボルンさんの誘いでゴッチンゲン大学の教授(実験物理)、第二実験物理学研究所の所長。世界有数の研究拠点にする(33年まで)。
1925年(43才)ヘルツさんと共にノーベル物理学賞を受賞。原子と電子の衝突に関する研究。
1933年(51才)ナチスが政権を取り、公職からユダヤ人を追放する法律が制定される。フランクさんは反対の声を上げる第一号になる。しかし政府も大学も動かなかった。
1934年(52才)ドイツを出てコペンハーゲンのニールス・ボーア研究所へ。
1935年(53才)渡米し、ジョンズ・ホプキンス大学の教授。予算が少なくスタッフを雇えない、ドイツにいる家族を呼び寄せられない。
1938年(56才)条件が良いシカゴ大学の教授に。結晶中の光化学を専門とするエドワード・テラーさんと最初の共著論文を発表。
1939年(57才)WWII
1942年(60才)マンハッタン計画に協力するためシカゴ大学が冶金研究所を新設。ドイツを台無しにするナチスを倒すため化学部門を率いる。原子爆弾のためのプルトニウムの製造が目的。
1941年(59才)アメリカ市民になる。
1945年(63才)WWII終戦
1946年(64才)妻が死去。化学者と再婚。マイトナーさんとの交流は続く。
1964年(82才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/James_Franck
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(8) カール・ボッシュさん

前回からの続き(マイトナーさんの歩み)
▼マイトナーさんとボッシュさんの共通点は、カイザー・ヴィルヘルム研究所である。
ハーバーさんとボッシュさんは研究所が開設する1912年の前からハーバー・ボッシュ法でアンモニアを量産するのために協力関係があった。
▼1933年にヒトラーが政権を取り、ユダヤ人の追放が始まる。この年にハーバーさんは研究所の所長を辞し、翌年、死去。ボッシュさんが新所長になる。ボッシュさんは、この段階では外国籍ユダヤ人のマイトナーさんが研究所を追われる可能性は大きくないので、研究所に残るようアドバイス。
▼しかし、マイトナーさんの祖国オーストリアがドイツに併合されるとマイトナーさんも研究所から追放する対象になる。

ハーバーさんのご専門は?
化学者、同時に経営者。ハーバーさんが持ち込んだアンモニアの製造法を大規模化して工場生産を実現した。ハーバー・ボッシュ法として有名。

どんな関係?
ボッシュさんはマイトナーさんの実力を認めていた。ハーバーさんがカイザー・ヴィルヘルム研究所の所長を辞任した後、研究所長を引き継ぐ。マイトナーさんのドイツ脱出を手助けしようと尽力するも、ヒムラーに阻まれる。
結局、マイトナーさんはボーア研究所から救いに来たディルク・コスターさんと命からがらドイツを逃れる。

どんな人生?
化学者としての能力と経営者としての能力の両方に恵まれていた。社会課題を解決する科学技術や製造工場が戦争に使われる、個人的にヒトラーと対立していても事業ではナチスと協力関係、戦後手塩にかけた工場が閉鎖されそうになってもばん回したものの、その後大事故で多数の死者を出す、マイトナーさんを救おうとしてもナチスの壁に阻まれる、などなど思うようにいかないことだらけ。WWIIが始まった翌年、ナチスが勢いを増す最中に死去。

カール・ボッシュ Carl Bosch 1874-1940 化学者、経営者。

1874年、ドイツのケルン生まれ。実家はガス・配管会社を経営。叔父のロバート・ボッシュはエンジンのプラグでBoschを起業した人物。
教育
1893年(19才)高等実業学校を卒業。
1894年(20才)ベルリン工科大学に入学。冶金学と機械工学を学ぶ。化学の講義も受講。
1898年(24才)ライプツィヒ大学で博士(有機化学)。指導教員はヨハネス・ウィスリセヌス先生。
活動
1899年(25才)BASF社に入社。中央研究室で研修。
1900年(26才)製造工場に配属。上司のルドルフ・クニーツさんからヴィルヘルム・オストヴァルト氏が発明したアンモニア合成法の追試を命じられる。しかし、追試で再現できない。原因を発見。オストヴァルト氏は特許を撤回。仕事ぶりが評価を受ける。
1902年(28才)上司の信頼・支持がありBASF社の無水フタル酸工場の拡張計画を実現。工場内に実験室を持つ。経済的な固定窒素の研究に取り組む。
1909年(35才)ハーバーさん(カールスルーエ高等工業学校教授)がBASFに触媒を使った固定窒素製造法を持ってくる。 反対意見が出た中、ボッシュさんはハーバー法の実現可能性を支持。BASF経営者が開発を決定。
1911年(37才)仮工場で1日に2トン以上のアンモニアを生産。アンモニア生産の新工場計画の責任者になる。
1913年(39才)アンモニアの新工場が稼働開始、BASFの利益に貢献。すぐ生産能力の増強に着手。
1914年(40才)WWI
1914年(40才)軍が弾薬用の硝酸を必要とする。アンモニアから硝酸を作る方法を提案。
1915年(41才)硝酸製造のためオッパウ工場を設立、稼働開始。フランス軍から同地域が爆撃を受け、破壊のリスクが高まる。
1916年(42才)オッパウ工場の壊滅に備えロイナ工場の建設に着手。
1917年(43才)ロイナ工場が稼働開始。
1918年(44才)WWI終戦。ベルサイユでの和平交渉に参加。オッパウとロイナ両工場を閉鎖する方針の撤回にこぎ着ける。
1919年(45才)フランス国内にハーバー・ボッシュ法を使ったアンモニア工場を作る計画にBASFが技術援助する話がまとまる。BASFの取締役会長に就任。
1921年(47才)オッパウ大爆発事故が発生。561名が犠牲になる。すぐ現場を見る。人前に出なくなる。
1922年(48才)仕事に復帰。口数が減り、人と面会を避ける。
1923年(49才)ドイツが賠償金の支払いを延期したためフランス軍がオッパウ工場を一時占拠。のち撤退。
1924年(50才)ハーバー・ボッシュ法が一般化したため、BASFは新しい収益源としてエタノール由来のガソリン製造事業を目指す。
1925年(51才)大型投資に備え企業合同による新会社IGファルベンを設立。取締役会長に就任。
1931年(57才)ノーベル化学賞を受賞。受賞理由は、高圧化学的方法の発明と開発。
1932年(58才)ヒトラーが勢力を伸ばし始める。
1933年(59才)ナチスに献金を求められたIGファルベンは応じる。ヒトラーがユダヤ人を公職から追放する法律を実施。科学者には法律の適用はないと信じたボッシュさんはマイトナーさんに現職に留まるようアドバイス。 ヒトラーが経済諮問委員会を作り、ボッシュさんが委員になる。ボッシュさんはナチスのユダヤ人政策に不満を持っていたため口論。 IGファルベンは生産した石油を全てナチス政府が買い取る契約を結ぶ。
1934年(60才)カイザー・ヴィルヘルム研究所を辞めたハーバーさんが死去。ナチスがハーバーさんの葬儀式典への出席禁止命令を出す。ボッシュさんは無視して出席。
1935年(61才)取締役会長を退き監査役会長に就任。
1937年(63才)カイザー・ヴィルヘルム研究所の所長に就任。マイトナーさんを出国させるため国務大臣と交渉。しかしヒムラーが妨害。
1939年(65才)ドイツ博物館でナチスを批判。その後、心身とも病む。
1939年(65才)WWII
1940年(66才)死去。
1945年、WWII終戦。

https://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Bosch
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(6) エンリコ・フェルミさん

前回からの続き。

1934年、マイトナーさんはカイザー・ヴィルヘルム研究所で活躍して22年が経過。ドイツではナチスによるユダヤ人追放が始まり、不穏な状態になっている。
マイトナーさんはE・フェルミさん(8月15日)の核反応の論文に刺激を受ける。フェルミさんの論文の実験結果を確かめるには化学者の協力が必要と考え、ハーンさんに話を持ちかける。結果、シュトラスマンさんを加えた3人の共同研究が始まる。この研究はハーンさんのノーベル化学賞受賞につながる。今回は、そのきっかけになったE・フェルミさんをご紹介する。

フェルミさんのご専門は?
イタリアとアメリカで活躍した原子核物理学。イタリアにいた時代は、自然の元素に中性子を照射して人工の元素を作る手法を編み出し、多くの放射性元素を見つけ出して論文で発表。この論文をマイトナーさんが見て、自分たちでも実験を始める。イタリアがファシズムで危険になったためアメリカに渡ってからは、世界初の原子炉を作り、プルトニウムを抽出し、世界初の原爆の製造に貢献した。理論と実験の両方に通じる核物理の専門家。概算の名人でもあり、例えば「ニューヨーク市にピアノの調律師は何人いるか?」などのクイズの元になるフェルミ推定を提示。

どんな関係?
マイトナーさんとフェルミさんの共通項は、核物理学。違う点は、マイトナーさんは原爆に協力しない立場、フェルミさんは原爆を作る立場。アメリカに渡ったフェルミさんは、ハーンさんがドイツで核分裂の実験を成功させたニュースを知る。ナチスが原爆を持ったら大変なことになると危機感を持ち、アメリカでの原爆製造を急いだ。マイトナーさんは、1945年にアメリカが日本に原爆を落とすまでマンハッタン計画を知らなかった。原爆投下を報道するため取材がマイトナーさんに殺到したとき「ハーンも自分も全く関わりがない」と答えている。フェルミさんは第二次世界大戦後は、水爆の開発に反対の立場を取る。

どんな人生?
20代から40代が、ヨーロッパではドイツがナチズム、イタリアはファシズムが勢いづいた時期と重なる。ユダヤ人女性と結婚したため、迫害の対象になる。ノーベル賞の授賞式に出席するため夫妻でイタリアを出国した機会を使ってそのままアメリカに渡る。その翌年に第二次世界大戦が始まるので、脱出はぎりぎりのタイミングだった。アメリカでは引く手あまた。危機を共有する政府・軍の後押しを得てコロンビア大で大がかりな実験施設を建設、原爆を作るためにプルトニウムが必要となるためシカゴ大で施設を建設し専念する。科学上の発見が、戦争の勝敗を決める原爆製造の開発競争になり、猛スピードで実現、実行に至る。放射線を浴びたのが原因で53才で亡くなる。

エンリコ・フェルミ Enrico Fermi 1901–1954 物理学者
1901年、ローマ生まれ。
教育
1914年(13才)WWI
1918年(17才)WWI終戦
1918年(17才)ピサ高等師範学校(ピサ大学)に入学。物理学を学ぶ。
1922年(21才)ピサ高等師範学校(ピサ大学)で博士号を取得。物理学を学ぶ。同じ専攻のフランコ・ラゼッティと親友になる。ドイツのゲッティンゲン大学に留学。
1924年(23才)ロックフェラー財団の奨学金を得てオランダのライデン大学に留学。アインシュタインさんなどの学問仲間を増やす。
活動
1925年(24才)ローマ・ラ・サピエンツァ大学で講師(物理学)。フィレンツェ大学で臨時講師(数学物理と理論工学)。
1926年(25才)「フェルミ統計」を発表。ローマ・ラ・サピエンツァ大学の教授(理論物理学)。ラゼッティさんや若手と研究チーム「パニスペルナ通りの小僧たちVia Panisperna boys」を作る。
1928年(27才)ユダヤ人女性と結婚。
1930年(29才)フェルミのベータ崩壊の理論を完成。元素に中性子を照射し40種類以上の人工放射性同位元素を生成。
1934年(33才)マイトナーさんがフェルミさんの論文に刺激を受け、ハーンさん、シュトラスマンと3人で共同研究を開始。
1936年(35才)コロンビア大で夏期講習を行う。
1938年(37才)ムッソリーニのファシスト政権によりユダヤ人追放の動きが活発化。
1938年(37才)ノーベル物理学賞を受賞。ストックホルムで授賞式に出た後、夫妻でアメリカに移住。
1939年(38才)コロンビア大学の教授(物理学)。ドイツでO・ハーンさんが核分裂実験を成功させたニュースを知る。
1939年(38才)WWII
1942年(41才)シカゴ大学で世界最初の原子炉「シカゴ・パイル1号」を完成
原子核分裂の連鎖反応の制御に史上初めて成功。この原子炉で原子爆弾の材料プルトニウムを生産。
1944年(43才)マンハッタン計画に参加、原爆製造のけん引役。ロスアラモス国立研究所のアドバイザー。
1945年(44才)WWII終戦
1946年(45才)水素爆弾の開発に反対。シカゴ大学で宇宙線の研究。
1954年(53才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%9F
https://en.wikipedia.org/wiki/Enrico_Fermi

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(7) フリッツ・ハーバーさん

前回からの続き。
▼1912年、44才のマイトナーさんは、ベルリン大学の地下木工作業所から、新設のカイザー・ヴィルヘルム研究所にハーンさんの客員研究員という立場で入る。この研究所の所長がフリッツ・ハーバーさん。ハーバーさんもマイトナーさんも共にユダヤ人。ハーバーさんは自分のアイデンティティはドイツ人(国に尽くす思いが毒ガス開発へ)。研究所のマネジメントは能力主義(ユダヤ人を差別しない)。
▼マイトナーさんが研究所に入ってから1年後の1913年からは正式な研究員になり、1918年からは核物理部を管理する立場になった。ハーバーさんが研究所を挙げて軍のために毒ガス開発をしている間も、マイトナーさんは参加せず、放射性物質の研究を続けることができた。他の研究者との交流も盛んだった。
▼この研究所の空気が一変するのは、1933年にヒトラーが政権を取り、研究所からユダヤ人の追放が始まってからだ。ハーバーさんは同年、所長を辞職。マイトナーさんは国籍がオーストリアだったため研究を続けられた。しかし38年にオーストリアがドイツに併合されてからは研究所にいられなくなる。

ハーバーさんのご専門は?
有機化学。空中の窒素からアンモニウムを合成するハーバー・ボッシュ法の生みの親。第一次大戦でドイツが使用した毒ガス兵器の開発者。戦争犯罪人になるかと思いきや、ノーベル化学賞を受賞。

どんな関係?
カイザー・ヴィルヘルム研究所の開設時から所長と所員の関係。共通項は同じユダヤ人。違いはハーバーさんはドイツ人、マイトナーさんはオーストリア人。

どんな人生?
化学者として国に尽くしたい、という強い思いで生きた人生。しかし、最後はナチスに国を追われる。同じ化学者の妻をもっと大事にできなかったのか。考えさせられることが多い人生を過ごされた人物である。
ハーバーさんを資金援助していた星一さん(1873-1951、星製薬社長)の招待で日本に2カ月滞在した時間は、二人にとってよきものであったろう。

フリッツ・ハーバー Fritz Haber 1868-1934 物理化学者。

1868年、ポーランドのヴロツワフ生まれ。裕福なユダヤ人の家庭。父は染料商人。生まれて3週間後に母が死去。
1874年(6才)父が再婚。父とは性格が合わず距離があった。しかし義理の母とは良い関係を築けた。
教育
1879年(11才)ギムナジウムに入学。文学、哲学、化学実験が好き。ユダヤ人としてよりもドイツ人としてのアイデンティティを持っていた。
1886年(18才)ベルリンにあるフンボルト大学に入学、冬学期の間、化学を学ぶ。しかし、期待外れだったので転学。
1887年(19才)ハイデルベルク大学で夏学期の間、ロベルト・ブンゼン先生に師事。
1888年(20才)ベルリン工科大学に入学。
1889年(21才)1年間の兵役につく。
1891年(23才)フンボルト大学で博士号。指導教員は有機化学のカール・リーバーマン先生。
活動
1892年(24才)博士になるとすぐ父親の染色事業を手伝う。しかし、両者の断絶が埋まらないことを父も認める。 イェーナ大学で1年半研究生活を送る。ジアセトコハク酸エステルに関する共同論文を発表。
1894年(26才)カールスルーエ大学の無給助手。大学の研究職に就くためユダヤ教からキリスト教に改宗。
1896年(28才)論文「炭化水素の分解の実験的研究」が評価され私講師になる。
1898年(30才)教科書『理論的基盤による技術的電気化学概論』が評価され助教授になる。
1904年(36才)窒素からアンモニアを合成する方法(ハーバー・ボッシュ法)の研究に着手。12年に化学メーカーのBASF社が実用化。
1906年(38才)カールスルーエ大学の教授。
1912年(44才)カイザー・ヴィルヘルム研究所の所長。マイトナーさんは客員研究員。
1914年(46才)WWI。従軍を志願し却下される。軍からはガソリン凍結防止用の添加剤の開発が命じられる。ドイツ軍用の毒ガス開発を命じられ着手。カイザー・ヴィルヘルム研究所を挙げて取り組む。O・ハーンさんが毒ガスの使用はハーグ条約に違反するのではないかと疑問を表出。妻のクララさんも研究に反対。
1915年(47才)第二次イーペルの戦いで毒ガス作戦を指揮。大きな成果をあげる。妻クララさんが自殺。
1916年(48才)マイトナーさんがオーストリア軍の従軍X線技師・看護婦の仕事を辞めて研究所に戻り、放射性物質の研究を継続。
1918年(50才)マイトナーさんがO・ハーンさんとプロトアクチニウムを発見。マイトナーさんが業績が認められカイザー・ヴィルヘルム研究所の核物理部を任される。
1918年(50才)WWI終戦。ドイツが敗戦したため、戦争犯罪人になるのを恐れ再婚した妻と息子を連れてスイスに逃れる。
1918年(50才)ノーベル化学賞を受賞。研究所の再編に取り組む。日本の星一さんが資金協力。
1919年(51才)ボルン・ハーバーサイクルを提唱。
1924年(56才)世界一周の旅に出る。星一さんの招待で日本に2か月滞在。
1933年(65才)ナチスが政権をとり研究所からユダヤ人の追放が始まる。所長職を辞職。
1934年(66才)死去。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BChttps://en.wikipedia.org/wiki/Fritz_Haber

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(5) フリッツ・シュトラスマンさん

前回からの続き。マイトナーさんの年表でみると:
1907-12年、ベルリン大学の木工作業所時代。
1912年(34才)カイザー・ヴィルヘルム研究所時代のはじまり。
1920年(42才)ハーンさんとの共同研究が終了、独立して研究を開始。
1933年(55才)ヒトラー政権になり、大学や研究機関からユダヤ人の追放が始まる。
1934年(56才)E・フェルミさんの核反応の論文に刺激を得て、実験結果を確かめるには化学者の協力が必要と考え、ハーンさん、シュトラスマンさんと3人で共同研究を開始

シュトラスマンさんのご専門は?
核物理学、核化学。マイトナーさん・ハーンさんとの共同研究が長かった。

どんな関係?
シュトラスマンから見るとマイトナーさんとハーンさんは24才年上で実績も格も違う存在。マイトナーさんはカイザー・ヴィルヘルム研究所の幹部になっていたので、反ナチスの立場を取ったため働き場を失ったシュトラスマンさんに救いの手を差し伸べてくれた。マイトナーさん・ハーンさんの共同研究の仲間に入れ、実験を任せ、給料も出してくれた。マイトナーさんはナチスから逃れるためドイツを脱出し、ハーンさんは管理業務に追われていたため、ひとりで継続的に実験を続けた。ハーンさんのノーベル化学賞は、シュトラスマンさん、マイトナーさんの力があってこそ。第二次世界大戦が終わってから、マイトナーさんにドイツに戻ってこないかと声をかける。しかし、マイトナーさんは結局、ドイツには戻らないまま。

どんな人生?
反ナチスの立場を取りブラックリストに載ったため、働き場所を失いかけた。しかし、マイトナーさんがハーンさんとの共同研究の仲間に入れ、給料も出してもらった。自分の放射化学の研究がヒトラーに使われて原子爆弾にでもなったら死んだほうがまし、と考えていた。

フリッツ・シュトラスマンFritz Strassmann 1902-1980  化学者、物理学者

1902年、ドイツ西部の都市ボッパルト生まれ。デュッセルドルフ育ち。
子供時代から化学に関心があり自宅で実験を行う。父親が死去して経済的にままならない状態になる。
1914年(12才)WWI
1918年(16才)WWI終戦
教育
1920年(18才)化学を学ぶためハノーバー技術大学に入学。学費はチュータをして賄う。
1924年(22才)同大学から科学技術者の修了証書diplomaを得る。
1929年(27才)同大学で博士(物理化学)。分析化学への志向が強まる。
1929年(27才)奨学金を得て カイザー・ヴィルヘルム化学研究所でオットー・ハーンさんと放射化学の研究を開始。
活動
1932年(30才)奨学金が切れたのでハーンさんの研究室で無給・費用負担なしの研究学生として残る。
1933年(31才)ヒトラー政権。ユダヤ人の追放が始まる。
1933年(31才)ドイツ化学者協会がナチスの管理になったため辞任。そのためブラックリストに登録される。以降、就職も大学での活動もできなくなる。
1933年(31才)マイトナーさんがシュトラスマンさんの窮状を救うためオットーさんに共同研究の仲間に入れて給与を支払うことにする。
1934年(32才)マイトナーさんがE・フェルミさんの論文に触発されハーンさんとシュトラスマンさん3人で共同研究を開始
1936年(34才)ウラン239を発見。
1938年(36才)マイトナーさんはドイツを脱出。ウランに中性子をぶつけるとバリウムが生じる。残った二人は理由が分からずマイトナーさんに手紙で相談。 その答えがハーンさんのノーベル化学賞につながる。
1939年(37才)WWII
1940年(38才)ナチスへの協力を妻と共に拒む。アパートにユダヤ人の音楽家をかくまいながら放射化学の研究を継続。
1944年(42才)ハーンさんが単独でノーベル化学賞を受賞。シュトラスマンさんは共同研究者として認知された。
1945年(43才)WWII終戦。成果が地質年代学にも貢献する。
1946年(44才)マインツ大学の教授(無機化学、核化学)。
1966年(64才)エンリコ・フェルミ賞を受賞。
1967年(65才)ドイツ連邦政府に働きかけ核化学研究所を設立。
1970年(68才)引退。
1980年(78才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Fritz_Strassmann
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3

L・マイトナーさんの歩みに影響した人物(4) エリザベート・シーマンさん

前回からの続き。今回は、1907-12年、ベルリン大学の研究所の地下の木工作業所でオットー・ハーンさんと放射線の共同研究をしていた時期に出会った人物を紹介する。研究成果が出るにつれ、フィッシャー先生(9月10日)も認めるようになり、研究所への出入りが許される。次第に、知り合いの輪が広がる。E・シーマンさんもそのひとり。

シーマンさんのご専門は?
植物学者。遺伝学や栽培植物史。マイトナーさんとは異なる専門分野。

どんな関係?
ベルリン大学を舞台に、シーマンさんは学生、3つ年上のマイトナーさんは研究者という友人関係。
マイトナーさんがナチスから逃れてドイツを脱出してからも文通を続ける間柄。最初の出会いから37年後、第二次世界大戦が終わってから、ナチスに対する姿勢の取り方を巡って見解の相違が生じた。

どんな人生?
シーマンさんは、大学の門戸が女性にわずかしか開かれていなかった時から、研究者を目指していた一人。指導教員が力のある先生だったおかげで博士号取得後、専門職につくことができた。ナチスに対しては明確に反対の立場を取っていたため大学で授業ができなくなる目に遭う。戦後は大学に復帰。

エリザベート・シーマン Elisabeth Schiemann 1881-1972 ドイツの植物学者
1881年、エストニア生まれ。父は歴史家。
1887年(6才)ベルリンに転居。
教育
1908年(27才)ベルリン大学に入学。
1909年(28才)リーゼ・マイトナーさん(31才)と出会う
1912年(31才)ベルリン大学で博士号を取得。コウジカビの研究。指導教員はエルヴィン・バウアー先生。
活動
1914年(33才)バウアー先生が監督するベルリン農業大学の遺伝学研究所でsenior assistant。31年まで。
1914年(33才)WWI
1918年(37才)WWI終戦
1924年(43才)教授資格を取得。農業大学で私講師として授業を持つ。
1931年(50才)植物学研究所で客員研究員として研究。作物栽培研究の考古学的アプローチを始める。
1931年(50才)ベルリン大学の教員。
1932年(51才)「栽培植物の起源」Origin of cultivated plants を出版。業界標準のテキストになる。
1938年(57才)リーゼ・マイトナーさんがベルリンを脱出
1939年(58才)WWII
1940年(59才)ナチスの政策に反対の姿勢を示したためベルリン大学の教授職から外される。
1945年(64才)WWII終戦
1946年(65才)ナチスへの対応についてマイトナーさんと意見が食い違う
1946年(65才)ベルリン大学での教授職に戻る。遺伝学と栽培史を教える。
1956年(75才)植物学研究所(このときにはマックス・プランク協会の一部となっていた)を退任。
1972年(91才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Elisabeth_Schiemann
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3