パラジウムPdの発見者 W・ウォラストンさん(2)

プラチナ鉱物を精製する過程でパラジウムを発見。美しい貴金属なので人気が出ると読んだ(多分ね)ウォラストランさんは学会に報告する前に、新しい貴金属として匿名で販売に供した。しかし思わぬところからパラジウムが合金だと主張する化学者が現れる。しかも同じ王立協会のメンバー同士。2年がかりの論争になる。自分の手法と発見に自信があったウォラストンさんは貴金属ビジネスを怠りなく進めながら、同じ合金を作って見せたら賞金を出すと公募。結局、このドタバタ劇はウォラストンさんが詳細な論文を出すことで決着。化合物か単体か見極めるのは難しい。ウォラストランさん自身、タンタルとニオブが同じ元素だと判断ミスしているくらい。

ウィリアム・ハイド・ウォラストン William Hyde Wollaston 1766-1828
(7月20日参照)

発見
1802年(36才)新しい貴金属を発見し、数か月前に発見された小惑星の名前パラスからとってpalladiumと名付けて研究記録帳に記載。パラスPallasは古代ギリシア都市アテネの女神の名前。
1803年(37才)ロンドンのソーホー地区にある小さな店で発見者の名前を伏せて精製したものを販売。

論争
アイルランドの化学者R・チェネヴィックス氏(R・Chenevix、1774-1830)が、王立協会の発行する学術雑誌で「W・ウォラストン氏がプラチナ鉱物から抽出し、前年匿名で販売に供したパラジウムは、実はプラチナと水銀の合金だ」主張。この一見驚くべき報告によって王立協会からメダルを授与される。
ウォラストンさんは、王立協会にパラジウムを発見した報告を伝えると共にチェネヴィックス氏の主張が実験で裏付けられるかどうかを、賞金をつけて匿名で公募した。
1805年(39才)チェネヴィックス氏が反論論文を発表。この出版にあたっては、H・キャヴェンディッシュさんだけが協会で唯一反対に回る。
決着
この年の終わり、ウォラストンさんは、匿名で活動していたのは自分だったと公開、同時にパラジウム元素をどのように単離したのかその過程を詳細に論文で明らかにした。
その後
会議で二人が顔を合わせることがあっても両者の間で敵対意識が現れるようなことはなかったという。ただ、この事件によってチェネヴィックス氏の化学者としての評判がどれくらいダメージを受けたかについて、評価は分かれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%A6%E3%83%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%A6%E3%83%A0
https://en.wikipedia.org/wiki/Palladium
https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Chenevix_(chemist)

ロジウムRhの発見者 W・ウォラストンさん

ロジウムRhは窒素酸化物NOxの除去としてクルマに、光学機器用メッキ剤としてカメラに使われるレアメタル。ウォラストンさんは、家庭環境良し、本人の決断力良しのダブル効果の人。結果的に新しい発見と技術を社会にもたらした。しかも自分の技術で経済的な自由を確保。ロジウムはウォラストンさんがプラチナの精錬過程で見つけたもの。さすがプラチナ、縁起が良い。

ウィリアム・ハイド・ウォラストン William Hyde Wollaston
1766-1828
イギリスの化学者、物理学者、天文学者。

1766年、イギリス東部のノーフォーク生まれ。
父親はイギリス国教会の聖職者で有名なアマチュア天文学者。
兄弟17人。経済的に裕福で、知的刺激に満ちた家庭環境で育つ。

教育
1774-78年(8-12才)私立寄宿学校。
卒業後、ケンブリッジ大学Gonville and Caiusカレッジで科学を学ぶ。
化学、結晶学、冶金、物理に興味を持つ。
1787年(21才)ケンブリッジ大学のフェロー(1828年まで)。
1793年(27才)ケンブリッジ大学からMD(薬学)を取得。

活動
1789年(23才)ノーフォークの隣のハンチントンで医師になる。
1797年(31才)ロンドンに転居。
1800年(34才)年上の兄の一人から巨額を受取ったので実務から足を洗い、化学をはじめ興味を持っていたテーマの追及に専念。化学品の生産と販売を目的にS・テナントさん(イリジウムを発見する化学者)とパートナーシップを組む。自らプラチナ鉱石から貴金属を精製する実用的な物理化学法を編み出し、経済的に成功する。この製法は死ぬまで門外不出にし、唯一のプラチナの国内供給者として長期にわたって巨額の利益を上げた。

発見
1804年(38才)プラチナ鉱石の精錬過程の化学分析によってロジウムrhodiumを発見。
塩がバラ色であることからギリシア語rhodeos命名。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A6%E3%83%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3

ルテニウムRuの発見者 K・クラウスさん

クラウスさんは6才で孤児になり14才から働き始めた。人生の初期が過酷だった。転機は薬剤師の国家試験にロシア史上最年少で合格したこと。貧しくても能力があれば受け入れたロシア軍事医学学校の存在も大きい。30才までは薬剤師として生きる。しかし、研究を続けたいという気持ちを断ちがたく30才過ぎて大学に入る決断をする。このとき、すでに結婚していた。経営していた薬局をしめて学生になると言い出したご主人に嫁さんがよく協力したものである。

Karl Ernst Claus 1796–1864
ルテニウムの発見者。ロシアの化学者、植物学者。

1796年、エストニアの都市タルトゥ生まれ。父親は画家。
1802年(6才)父と母が相次いで死去。
1810年(14才)サンクトペテルブルグに出て、薬局の助手として働く。
1817年(21才)サンクトペテルブルグ軍事医学学校で学び、薬剤師国家試験に当時ロシアで最年少で合格、薬剤師になる。
1821年(25才)結婚。
1826年(30才)カザン(タタルスタン最大の都市)で自分の薬局を開設。

教育
1928年(32才)研究活動を続けたいと考えカザンを離れ生地に戻りタルトゥ大学に入学。
1831年(35才)タルトゥ大学化学研究室の助手。
1837年(41才)植物由来の化学物質の研究でタルトゥ大学から博士号取得。
カザン州立大学の化学実験室の室長。
1839年(43才)鉱水の化学物質の分離の研究で教授資格を得て、カザン州立大学准教授になる。
1844年(48才)カザン州立大学教授。
1852年(56才)タルトゥに戻り、タルトゥ大学の薬学教授。

発見
1840年(44才)サンクトペテルブルク鉱山の白金鉱石を化学的に精製。
1844年(48才)ルテニウムの単離に成功。ロシアに関する名前なのでオサンさんと同じくルテニウムと命名。オサンさんと共同研究していたベルセリウス先生に単離した資料を送って分析を依頼。ベルセリウス先生が認めたことでクラウスさんはルテニウムの発見者としてヨーロッパで有名になった。


シェーレさん(7月6日参照)と同じく、試料を指につけたり、舐めたりするタイプ。自分の健康にはわりと無頓着。毒物にあたって2週間動けなくなることもあった。シェーレさんが44才で毒に当たって亡くなったのに比べるとクラウスさんは無茶をしながら68才まで生きた。

https://en.wikipedia.org/wiki/Karl_Ernst_Claus
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%83%A0

ルテニウムRu 発見して命名したものの・・・オサンさん

ハードディスクの磁性体に使うと記憶容量が増大する物質、ルテニウムRu。発見に近づいたのはドイツの化学者オサンさんとベルセリウス先生。共同して実験した結果、ベルセリウス先生は何もなしと判断。オサンさんはあると判断。試料を見つけたロシアの地方の名前までつけて粘ったものの新物質の存在を明らかにするだけの分量が足らず、諦める。16年後、ロシアの化学者が発見し、同じ名前を命名。

Gottfried Wilhelm Osann 1796–1866 ドイツ人の化学者

1819年(23才)ドイツ・エルランゲン大学で自然科学を学んだあと、同大学で物理・化学の講師になる。
1821-23年(25-27才)ドイツ・イエナ大学の物理・化学の講師。
1823-28年(27-32才)エストニア・ドルパット大学で化学と薬学の講師。

ルテニウムに近づくも
1828年(32才)ドイツ・ヴュルツブルク大学に所属。ベルセリウスさんと共同研究でウラル山脈から採れたプラチナ鉱石を溶解し、ルテニウムの発見まであと一歩のところまで到達。ベルセリウスさんは発見物なし、と判断。しかし、オサンさんは3種類の新しい金属を発見したと考え、それぞれに名前をつけた。
pluranium(platinumとUralを連結した)、ruthenium(ウラル山脈のある地域の名がRusで、そのラテン語ルテニアにちなんだ)、polinium(その色から銀髪の意味のギリシア語poliaにちなんだ)。
これらは単離するには量が少なすぎたため、オサンさんは発見の報告を撤回
1844年(48才)ロシアの化学者カール・クラウスさんがルテニウムの単離に成功。ルテニウムの発見者となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%83%A0
https://en.wikipedia.org/wiki/Gottfried_Osann

テクネチウムTc 人工的に作って発見したセグレさんとペリエさん

原子番号43の元素の発見に多くの科学者が挑戦していた。セグレさんは番号42のモリブデンに陽子をぶつけて43にしたら新しい元素ができるんじゃないかと考え、そんな実験ができる装置を持っているカリフォルニアのバークレー研究所を訪れて依頼。結果は当たり。それまで発見できなかった理由は、43番の元素は放射性物質で半減期が420万年。地球誕生の時にはあったとしても46憶年前の話なので、とっくに消失していた。

エミリオ・ジノ・セグレ Emilio Gino Segrè 1905-1989
イタリア生まれのアメリカの物理学者。

1905年、ローマ付近でユダヤ人の家庭に生まれる。
1927年(22才)、ローマ大学のサピエンツァ校で最初は工学、次にエンリコ・フェルミの下で物理を学ぶ。
1932-36年(27-31才)ローマ大学で助教授。エンリコ・フェルミ学派の一人。
1936-38年(31-33才)パレルモ大学物理学研究所の所長。
1937年(32才)バークレー研究所を訪問し、ローレンス所長にサイクロンを使ってモリブデン試料に陽子をぶつける実験を依頼。同僚のカルロ・ペリエさんとローレンス所長から送られてきた試料を分析したところ期待の新元素を発見。
1938年(33才)カリフォルニア滞在中にイタリアでムッソリーニが大学からユダヤ人を追放する決定を下す。帰国せずアメリカに残る。イタリアにいた両親は、父は生き残り、母はナチス・ドイツの手にかかりアウシュビッツで死亡。
1947年(42才)ペリエさんと共に新元素の名前をギリシャ語で人工の意味のtechnitosにちなんでテクネチウムと命名。

1959年(54才)「反陽子の発見」でノーベル物理学賞を受賞。

カルロ・ペリエ Carlo Perrier 1886–1948
イタリアの鉱物学者。1936年から原子番号43の元素の発見に努め、1937年にセグレさんと共同で発見。1947年、テクネチウムと命名。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%8D%E3%83%81%E3%82%A6%E3%83%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%B0%E3%83%AC
https://en.wikipedia.org/wiki/Carlo_Perrier

モリブデンMo 発見はシェーレさん 単離は友人のイェルムさん

自転車愛好家の中にクローム・モリブデン鋼のフレームを好む人がいる。特長は強くてしなやか錆びにくい、しかもリーズナブル。比較するとアルミは軽量、しかし変形すると元の形に戻しにくい(というか戻せない)。ファイバーやチタンは言うことない、けれどもなにしろ高価。というわけでクロモリ良いじゃんとなる。そのモリブデン酸化物を最初に見つけたのは鉱物と人が一体化したような化学者シェーレさん(7月6日参照)である。単離したのは、シェーレさんの4つ年下の友人でウプサラ大学PhDのイェルムさん。

発見者
カール・ヴィルヘルム・シェーレ  1742-1786
1778年(36才)モリブデン鉱物の輝水鉛鉱を硝酸と反応させて分離した酸化物として発見。「水鉛土」と命名。モリブデン土と呼ばれた。

用途
高級自転車のフレームで使われるクロムモリブデン鋼のように鋼の添加元素に利用される。

単離した人
ペーター・ヤコブ・イェルム Peter Jacob Hjelm 1746–1813
スウェーデンの化学者。シェーレさんの友人

1746年、スウェーデン生まれ。父親は教区の祭司。
ウプサラ大学でPh.D.を取得。採鉱学院の教授になる。
1781年(35才)シェーレさんが水鉛土を発見して4年後、水鉛土から黒い金属粉末を単離。モリブデンと命名した。
1782年(36才)王立造幣局の職員になる。鉱物の分析、元素成分を手掛ける。
1784年(38才)王立スウェーデン科学アカデミーの会員になる。
その後、鉱業省化学研究所の理事になる。
1790年(44才)著作でモリブデンを発表。

名前の由来
イェルムさんが命名。輝水鉛鉱が鉛鉱物の方鉛鉱に似ているのでギリシャ語の鉛molybdosからとった。

https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Jacob_Hjelm

ニオブNbの発見者 C・ハチェットさん

周期表の上から5層目になると発見と特定の経緯が複雑でだんだん難しくなってくる。ニオブもそうで、最初はハチェットさんによってコロンビニウムと名付けられていた物質。発見者のハチェットさんは、セレブ御用達の馬車製造業を営む豊かな家に生まれた人物。時間の使い方のスケールが大きい人。新婚旅行は2年かけてヨーロッパ各地を歴訪。今の日本では考えられない。ビジネスで馬車をロシア皇帝にお届けするときもその地域の主だった学者との交流に力を入れる。国内旅行も綿密で、その記録が100年以上経った後に出版されるほど。集めた鉱石は7千点以上。このコレクションは英国博物館が所蔵し散逸していない。父の死後、馬車事業を引き継ぐ。学者仲間は化学から離れたことを残念がっている。でも父親の事業を継いだ姿勢は好感を呼ぶのではないか。

チャールズ・ハチェット Charles Hatchett 1765-1847  イギリスの鉱物学者、化学者

1765年、ロンドン生まれ。
父親は、ロンドンのセレブが顧客の馬車製造業者で後にハマースミス地区判事をつとめる人物。

教育
ロンドン付近の私立学校に通う。
鉱物学と化学の分析の知識は独学・一流の学者との面談・現場訪問で身につける。
1786年(21才)結婚。夫婦で2年かけてポーランドからロシアにかけて広範囲を旅行。
1790年(25才)ハマースミス地区で居を構える。再び旅行の機会に恵まれる。今度は父の遣いで、サンクトペテルブルクまでロシア女帝エカテリーナ二世に馬車をお届けする仕事。「科学の擁護者」ジョゼフ・バンクスさんの紹介を得て、旅の途中、ドイツではM・クラプロートさん(7月14日参照)、ロシアでは知識学者・植物学者のP・パラスさん、ナポリでは鉱物学者のA・サヴァレッシさん他の学者と面談の機会を得る。
1796年(31才)イングランドからスコットランドにかけて地質学的な興味を引く鉱山や工場を見て回る長期旅行に出る(この時の記録は編集され1967年にハチェットの日記として出版される)。

化学へ集中
1796-1806年(31-41歳)化学の活動が盛んな時期。
1796年(31才)自著「モリブデン酸塩のコリント式分析法」を出版。鉱物の性質に関する論争を解決した。
1797年(32才)20本以上の論文、鉱物・樹脂・天然物の科学的組成の特定などの実績が評価されローヤルソサイエティのフェローに選出。
1799年(35才)これまで収集した7,000以上の鉱物サンプルをロンドンの英国博物館に売却。
博物館の鉱物コレクションの整理に協力すると同時に、分析のため標本の一部を削る権利も持っていた。
1800年(35才)ロンドンで私設研究室を開設。
1801年(36才)博物館のコレクションのコロンバイト(アメリカのコネチカット州から送られた鉱物サンプル)を分析した結果、新しい元素が含まれていると発見。この元素をアメリカの発見者・コロンブスにちなんでコロンビニウムcolumbium(Cb)と命名。ローヤルソサイエティで発表。

ハチェットは父の死去に伴い高級馬車製造事業を引き継ぐため、化学の研究をやめて経営に専念した。

発見の後
1802年(37才)エーケベリさん(7月12日参照)がタンタニウムtantalumを発見したと発表。その後、多年にわたってコロンビニウムとタンタニムは同じものという誤解が続く。
1846年、ドイツの化学者H・ロゼさんがタンタライトは2つの元素からなっている、ひとつがニオビウムniobium、もうひとつがペロピウムpelopium、とギリシャ神話のキュクロプスの子の名前にちなんで命名。最終的にロゼさんのniobiumとハチェットさんのcolumbiumは同一のものと判明。
1949年、ニオビウムniobiumが正式名として決定。

用途
鋼鉄の強度の改善。1920年代から定着。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%88

ジルコニウムZrの発見者 M・クラプロートさん

クラプロートさんを表現するのに、ジルコニウムを発見した「町の化学者」とするか、ベルリン大学設立のとき初の化学教授に就任した人物とするか、で印象が違うのではないか。両方、本当。仕立屋の息子に生まれ、10代から薬局で見習いに入り、徒弟制度で鍛えられ、50才代までは勤めや自営で薬局兼研究所で生活していた。研究成果は次々に論文発表。ジルコニウムの発見もこの時期。民間とアカデミックの両方の顔を持つカッコ良い化学者。

マルティン・ハインリヒ・クラプロート Martin Heinrich Klaproth 1743–1817
ドイツの化学者

1743年、ドイツ中央部の都市生まれ。仕立屋の息子。

教育
地元のラテン語学校に4年間通学。

薬剤師修行
1759年(16才)クウェートリンブルクの薬局に見習いとして入る。
1764年(21才)徒弟が明けて一人前になる。
1766年(23才)薬局で修業を継続。
1766–68年(23-25歳)場所をハノーファーに変えて修業。
1768年(25才)ベルリン
1770年(27才)ダニスク

活動
1771年(28才)ベルリンに戻る。薬剤師・化学者として著名なV・ロゼ氏が営んでいた研究所・薬局に入る。同年、ロゼ氏が死去したため、試験に合格してシニア・マネジャに就任。
1780年(37才)結婚し自分の研究所・薬局Apotheke zum Barenを設立。
1782-1800年(39-47才)自分の研究所Apothekeラボで行った研究結果を84本の論文にして発表。Apothekeラボは当時、最も研究生産性に優れた化学職人の拠点となる。
1787年(54才)プロシア王立砲兵研究所の化学講師になる。
1788年(55才)ベルリン科学アカデミーの無給会員になる。
1800年(57才)ベルリン科学アカデミーの有給理事になる。薬局を売り払い、大学に新しいラボを設立するよう説得。
1802年(59才)新しい研究棟ができたので、自分の研究所から実験器具を搬入。
1810年(67才)ベルリン大学が設立。化学教授に就任。

発見
1789年(56才)酸化物のジルコニアからジルコニウムを分離(純粋な金属の状態ではない)。
セイロン産のヒヤシンスという明るい金色の鉱物を分析していた。黄金の色のペルシャ語zargunに由来してジルコニウムと命名。
1824年、死後7年目にベルセリウスさん(6月29日、7月7日参照)がジルコニウムを単離。

https://en.wikipedia.org/wiki/Martin_Heinrich_Klaproth
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%88

イットリウムYの発見者 J・ガドリンさん

フィンランドの切手に肖像が載る大化学者。歩みを追うと柔軟・偉ぶらない・自分の道を歩むタイプであることが伝わってくる。大学では初め数学をやるつもりだったけど、化学の良い先生に出会って専門を化学にするとか、ウプサラ大学のバーマン学派では親しい研究仲間に恵まれ、得意の語学を活かして、ひとりヨーロッパ・ケミカル・グランド・ツアーを楽しんだり、分析を頼まれた鉱石から歴史に残る発見をする、その鉱石に自分の名前を付けてもらうなどなど。何より古い習慣を破り、学生が化学実験をできるようにした活動は素晴らしい。

ヨハン・ガドリン Johan Gadolin 1760-1852 フィンランドの化学者、鉱物学者

1760年、フィンランドのトゥルク生まれ。父親は司教でトゥルク大学の物理学と神学の教授。
教育
1775年(15才)トゥルク王立アカデミーに入学、当初は数学を学ぶ。化学の先生に刺激を受け専攻を化学に変更。
1779年(19才)海向かいのスウェーデンにあるウプサラ大学に転学。
1781年(21才)同大学バーマン先生の指導の下で「鉄の分析」と題する論文を発表。
バーマン学派にはガドリンさんのほか、シェーレさん(7月6日)らが集った。

キャリア
1784年(24才)ウプサラ大学の化学教室の担当候補になった。しかし、結果は、なれなかった。後にベルセリウスさん(6月29日、7月7日参照)を指導するJ・Afzelius氏が選ばれた。
1785年(25才)トゥルクで無給非常勤講師に就任。
1786年(26才)ひとり「ケミカル・グランド・ツアー」を敢行し、ヨーロッパ各国の大学や鉱山を訪ねる。ガドリンさんは、母国語のスウェーデン語に加え、ラテン語、フィンランド語、ロシア語、ドイツ語、英語、フランス語を流暢に操れた。
1797年(37才)トゥルク王立アカデミーの教授に就任。学生に実験を行わせた最初の科学者の1人。

発見
1792年(32才)C・A・アレニウスさん(7月12日参照)がストックホルム近郊のイッテルビー村の採石場で発見した黒くて重い鉱石のサンプルを受け取る。
慎重に分析した結果、39%が未知の酸化物のアースであると判定。これは後にイッテリアと名付けられる。
イッテリア(イットリウム酸化物)は最初に認知されたレア・アース金属化合物。
1794年(34才)結果を発表。最初のレア・アース元素イットリウムyttriumについて言及した人物として名を上げる。

その後
1800年(50才)マルティン・ハインリヒ・クラプロートさん(7月12日、7月14日参照)が、ガドリンさんが調べた鉱石をガトリン石gadoliniteと命名。

https://en.wikipedia.org/wiki/Johan_Gadolin
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%B3

イットリウムY 鉱石を発見したのはアレニウスさん、単離したのはヴェーラーさん

そもそもの話、イットリウムを含むもともとの鉱石が難物なやつ。話が複雑になる。問題の鉱石をイッテルビー村で見つけたのはプロの軍人兼アマチュアの化学者。センスの良い人で、この鉱石の分析は自分の手に余ると判断し、イッテルバイトという名前を付けて欧州各地の化学者に配る。受け取った化学者らが分析するも単体と思ったら酸化物だったりと苦戦、ホイホイとは進まなかった。結局、4つの元素が含まれていると判明するまで、100年近くの年月と10名近くの化学者の関わりが必要だった。途中、イッテルバイトは功績を上げたガトリン氏の名前をとってガトリン石に改名する。

1787年、カール・アクセル・アレニウスさん(1)がスウェーデンのイッテルビー村で未知の鉱物を発見。町名にちなんで「イッテルバイトytterbite」と命名し、分析してもらうため複数の化学者に配布。
1789年、(2)ヨハン・ガドリンさんがアレニウスさんから送られたイッテルバイトを分析し、イットリウム酸化物を発見。
1792年、ガドリンさんがイッテルバイトからイットリウム酸化物の単離に成功。
1794年、ガドリンさんが分析結果を発表。
1797年、(3)アンデルス・エーケベリさんがイットリウム酸化物を「イットリアyttria」と命名。
1800年、(4)マルティン・ハインリヒ・クラプロートさんはイッテルバイトをガドリン石(gadolinite)に改名。
1828年、(5)フリードリヒ・ヴェーラーさん(6月18日、28日参照)がイットリウムを単離。
1843年、(6)カール・グスタフ・モサンデルさんがイットリアから、酸化イットリウム・酸化テルビウム・酸化エルビウムの3種の酸化物を単離。
1878年、(7)ジャン・マリニャックさんが酸化イッテルビウムを単離。
1879年、モサンデルさんがテルビウムとエルビウムを単離。

(1)Carl Axel Arrhenius 1757–1824 スウェーデン軍の将校。アマチュア地質学者、化学者
(2)Johan Gadolin 1760-1852 フィンランドの鉱物学者、化学者
(3)Anders Gustav Ekeberg 1767-1813 スウェーデンの化学者
(4)Martin Heinrich Klaproth 1743–1817 ドイツの化学者
(5)Friedrich Wöhler 1800-1882 ドイツの化学者
(6)Carl Gustaf Mosander 1797-1858 スウェーデンの化学者
(7)Jean Marignac 1817-1894 スイスの化学者

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0
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https://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Axel_Arrhenius
https://en.wikipedia.org/wiki/Johan_Gadolin

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