J・リービッヒさん(2) リービッヒの最小律

<6月19日の追加> リービッさんヒは、植物の生育には窒素・リン酸・カリウムの3要素が必須と発見。生長の度合いは3要素中で最も少ない要素で決まる、ほかの2要素がいくら多くても影響しない、と説明(後に、水や日光、大気などの条件を追加)。これがリービッヒの最小律(リービッヒのさいしょうりつ)。

1816年(13才)夏のない年(Year Without a Summer)を経験。原因は、前年、インドネシアの火山が噴火したこと。地球を覆った煙の影響で欧米で夏の気温が上らず、農作物が壊滅、大飢饉になった。リービッヒさんのお父さんの仕事も大変になる。学費を貰えなくなったので、お父さんの仕事の手伝いをした(学校より楽しかったと思われる)。このとき、農業の重要性に気づく。この原体験が後に農芸化学の父になる要因。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%84%E5%B9%B4#:~:text=%E5%A4%8F%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%84%E5%B9%B4%EF%BC%88%E3%81%AA,%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%92%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%B0%8F%E5%BE%8B

1816 Was the Year Without a Summer

最少律 【高校生物】

子供時代の学び方 J・リービッヒさん 父の工房で小さい時から実験ざんまい

中学や高校の実験室の常備品「リービッヒ冷却器(あるいはリービッヒ・コンデンサ)」の発明者で有名なリービッヒさんは、Beを発見したF・ヴェーラーさんの友人。植物の生育に窒素・リン酸・カリウムが必要と提唱して化学肥料を作った「農芸化学の父」としての顔も持つ。

Justus von Liebig 1803-1873 J・フォン・リービッヒ

1803年、ヘッセン大公国の首都Darmstadtの中産階級の子息として誕生。父親は化学製品や金属製品の販売事業を営みながら自分の工房で塗料、ニス、顔料の加工も行っていた。
1811年(8才)Darmstadtの学校に入学。
1816年(13才)ヨーロッパじゅうが異常気象で夏のない年になり農作物の収穫が激減。ヨーロッパ史に残る大飢饉が起こる。薬剤師の元で見習いをした後、資金繰りが厳しくなった父を2年間手伝っている。
1817年(14才)Darmstadtの学校は、卒業証書を貰わないまま終る。
父の仕事仲間のKastnerさんの元で学ぶためボン大学に入学。
KastnerさんがErlangen大学に移るときもついていった。
1822年(19才)Kastner先生がHessian政府から奨学金を獲得してくれたので、先端の化学を学ぶためパリ大学ソルボンヌ校(理学部)に移る。ゲイ-リュサック先生の私設研究室に入る。
1823年(20才)Erlangen大学から博士号を授与される。Kastner先生がリービッヒさんに代わって論文要件を免除し本人欠席のまま学位授与できるよう大学に頼み込んでくれたからだった。
1824年(21才)Humboldtさんの推薦をもってダルムシュタットに戻りGiessen大学の教授になる。これは若い教員を置くことで学生数を増やそうという大学の試みで、報酬はわずかで実験室の予算はゼロだし大学施設も使えなかった。学内の雰囲気は微妙で協力的な先生もいれば、全くリービッヒさんに協力しない先生もいる、という状況。
1825年(22才)正教授になり給料と実験室も良くなった。学内に学生実験室を設け、パリ大ゲイ-リュサック先生の元で身に着けた知見を学生に伝授。この教育法に惹かれた学生がヨーロッパ中から集まり、Giessen大学は化学教育のメッカとなった。
1826年(23才)スウェーデンでBerzelius先生の指導を受けていたF・ヴェーラーさん(6月18日に紹介)がシアン酸塩が雷酸塩(リービッヒさんが子供の時から好きだった物質)と同じ組成であると発見。Berzelius先生は、このように異なる性質を持ちながら同じ組成を持つ化合物を「異性体」と名づけた。これが縁でヴェーラーさんと親しくなり共同研究を行うようになった。
1831年(28才)二重のガラス管の内側に蒸気を通し、外側を冷却して蒸気から水を得る「リービッヒ冷却器」を発表。以後、現在に至るまで世界中の学校や実験室で使用されている。

https://en.wikipedia.org/wiki/Justus_von_Liebig
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%92

子供時代の学び方 Beを見つけたF・ヴェーラーさん 実験室を自宅に作ってしまう化学マニア

高校時代から獣医の父と一緒に自宅に実験室を作り化学実験を始める。医学部に進学しても大人になっても実験を続け発見を重ねる。Beは成果のひとつ。

Friedrich Wöhler 1800-1882 Beベリリウムを発見したドイツの化学者

Germanyで獣医師の息子として生まれる。Frankfurt高校生の時、父に自宅に実験室を作ってもらい化学実験を始める。
1820年(20才)マールブルクMarburg大学医学部に入学。下宿でも化学実験を続ける。ハイデルベルク大学の化学と医学の教授グメリンGmelin先生の研究室に転籍。
1823年(23才)ハイデルベルグHeidelberg大学で博士(薬学、手術、産科)を取得。Gmelin先生の計らいでスウェーデンに行ってBerzelius先生の研究指導を受ける。ヴェーラーさんは先生の論文を国際出版するためにドイツ語に翻訳して協力した。
1828年(28才)金属カリウムと塩化ベリリウムを反応させベリリウムの単離に成功。同じタイミングでフランスのA・ビュシーさんも独自に単離に成功。M・H・クラプロートさんが「ベリリウム」と命名。緑柱石(beryl、ギリシア語で beryllos)に由来。
1836年(36歳)ゲッティンゲン大学の化学の正教授になる。

https://en.wikipedia.org/wiki/Friedrich_W%C3%B6hler
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0

子供時代の学び方 Bを見つけたルイ=テナールさん 自力+他力で学ぶ機会を掴む

目標を持ち、師匠と友達を正しく選ぶことで、金はなくても道は開ける事例。ホウ素の発見、絵具のコバルトブルーの発明者。

Louis Jacques Thénard 1777–1857 Bの単離、コバルトブルーの発明

▼フランス・シャンパーニュ地方のあまり豊かでない農家に生まれる。
フランス革命の後だったので、多くの子が14才まで奨学金を貰って教育を受けられた。賢い子だったルイさんもこの制度のおかげでパリから100kmほどの距離にある町の学校に入れた。
1793年(16才)有名な薬局のVauquelin先生に薬学を学ぶためパリに出る。
先生の妹さんがとりなしてくれたおかげでVauquelin先生が指導者になってくれた。ルイさんは月20フランの授業料を支払えないほど貧乏。しかし、3年間の精進のおかげで、化学実験の手腕だけでなく、言葉遣いも見た目も田舎者から都会風へと洗練され、Vauquelin先生の代講を務めるまでに成長した。(どんな努力をしたかというと、少ない小遣いをためて劇場に行き、俳優たちの立ち居振る舞いを見て田舎臭さを消すために学習した。)
1797年(20才)Vauquelin先生はルイさんが化学の先生になれるよう運動する。
1798年(21才)École Polytechniqueの先生に就任し、ゲイ=リュサックさんと出会う。すぐに友達になり共同研究をスタートする。
1808年(31才)ゲイ=リュサックさんと共同でホウ素の単離に成功する。
1813年(36才)”Treatise on Chemistry”という教科書を書き、25年にわたり版を重ねる。そのためヨーロッパの人間はみなルイさんから化学を学んだ、と言われた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%AB
https://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Jacques_Th%C3%A9nard
https://en.wikisource.org/wiki/Catholic_Encyclopedia_(1913)/Baron_Louis-Jacques_Th%C3%A9nard
Louis Jacques Thenard Story

子供時代の学び方 Bを見つけたゲイ=リュサックさん 逆境を楽観で乗り切る

豊かな家庭に育ち、教育は修道院で授かる。15才のとき、ロベスピエールの恐怖政治で父が逮捕・投獄される。周囲の支えもあって受験勉強に打ち込む。28才のとき友人のルイ・テナールさんと共同でB(ホウ素)を発見。

ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック Joseph Louis Gay-Lussac 1778-1850
▼パリ生まれ。幼少時代はボルドーのカトリック修道院で教育を受ける。
1793-94年(15-16才)ロベスピエールの恐怖政治の時期、法律家の父が逮捕され投獄。(デュポンの父親も逮捕・投獄された) デュモンティル修道院長の世話でパリで進学準備の勉強をする。
1798年(20才)パリの国立理工科学校エコール・ポリテクニークÉcole Polytechniqueに入学。
1801年(21才)国立土木学校 École des Ponts et Chaussées に転学。
1802年(22才)理工科学校 École Polytechniqueの化学者アントワーヌ・フールクロアの助手になる。気体の体積が温度上昇に比例して膨張する「ゲイ=リュサックの法則」を発表(シャルルの法則が先行)。
1804年(24才)熱気球で高度6400mまで上昇し大気の調査を実施。
1808年(28才)ルイ・テナールさんと共同でホウ素Bの単離に成功。元素名Boronの由来は、アラビア語の「ホウ砂Buraq(ブラーク)」。
1809年(29才)École Polytechniqueの化学教授に就任。
服地店に行ったとき、カウンターで化学の教科書を学んでいた店員ジュヌヴィエーヴ=マリ=ジョゼフ・ロジョさんと知り合い、結婚。

https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Louis_Gay-Lussac
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%82%A4%EF%BC%9D%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF
Chemistry: Gay-Lussac’s Law (Gas Laws) with 2 examples | Homework Tutor

子供時代の学び方 Liを見つけたJ・A・アルフェドソンさん なんと11才で大学に入学!?

25才のとき、知人の研究室で鉱石を分析していた時にLiを発見。18世紀末のスウェーデンの上流階級の子弟は11才から「大学」に入れた。好きな鉱物の知識を大学で学んだのが発見の元になった。

ヨアン・オーガスト・アルフェドソン Johan August Arfwedson 1792-1841

▼スウェーデンで卸売業と工場のオーナーのブルジョア家庭に生まれた。
1803年(11才)スウェーデンで最古のUppsala大学に入学。当時、貴族や裕福な家庭の子息は11才でも大学に入学できた。
1809年(19才)法学で、第一の学位degreeを取得。
1812年(22才)第二の学位として鉱物学を選び学位を取得。
1814年(24才)王立鉱山委員会の無給職員として社会に出る。じき無給公証人に昇格。地元のストックホルムで有名な化学者Jöns Jakob Berzeliusさんと知り合いになり、プライベート研究室に通い始める。
1817年(25才)Berzelius研究室でペタル石(またの名を葉長石=ようちょうせき)を分析中にリチウム元素Liを発見する。当時、鉱物から初めて発見された元素だったので、ギリシア語の「石」LithosにちなんでLithiumと命名。
1818-19年(26-27才)ヨーロッパを旅行。一部はBerzeliusさんの人脈を頼った。帰国後、自分の地所に研究室を設置。
1821年(29才)スウェーデン王立科学アカデミーの会員になる。
残りの人生は、父親から相続した遺産の管理と増加に時間を費やした。

https://en.wikipedia.org/wiki/Johan_August_Arfwedson
/part-3/ Geometric representation & atomic properties of lithium/

子供時代の学び方 Heを見つけたN・ロッキヤーさん 父の影響プラス論理志向

太陽の観測でヘリウムHeを発見した天文学者。英国電信のパイオニアである父の影響で幼いころから科学に興味を持つ。明快で論理的な説明が必要な科学的手法はロッキヤーさんの気質に合っていた。

ノーマン・ロッキャー Sir Joseph Norman Lockyer 1836-1920
昔ながらの学校教育を受けたあと、フランスとスイス旅行で見聞を広げる。1857年(21才)陸軍省の役人になる。数年で軍勤務を辞め、太陽観測を専門とする天体観測者になる。
1868年(32才)分光技術を用いて太陽光を分析。すると見慣れない黄色のスペクトル線を発見。これがヘリウムによるものだった。ギリシャ語で太陽を意味するheliosからヘリウムと命名。
同じタイミングでフランスのJanssenさんがヘリウムを発見。二人の報告が同時にFrench academyに届いたので、ヘリウムの発見者はこの二人とされた。
1869年(33才)総合学術雑誌「Nature」を創刊、その後50年にわたって編集に携わる。
1885年(49才)王立科学大学で世界最初の天文学教授に就任。

https://en.wikipedia.org/wiki/Norman_Lockyer
http://adsabs.harvard.edu/full/1920Obs….43..358R
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%BC
https://www2.hao.ucar.edu/Education/FamousSolarPhysicists/joseph-norman-lockyer

子供時代の学び方 Hを見つけたキャヴェンディッシュさん 寡黙で孤独を友に物理や化学の実験を好む

水素Hを発見した人物。極端な内気で他人と会話をしない人。大学を3年で中退、以降は論文を見て実験し発見を重ねる。学会(王立協会)を大事にした。

ヘンリー・キャヴェンディッシュ Henry Cavendish 1731–1810 イギリスの化学者・物理学者

▼父は貴族デヴォンシャー公で物理の研究家。貴族の母のもとに生まれる。母は2才のとき亡くなる。
1742年(11才)ロンドンにある私立ニューカム学校に入る。
1748年(17才)ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。物理学と数学で優れた成績を収める。
▼1751年(21才)学位を取らずに3年で退学(当時は珍しくなかった)。ロンドンの父親の住居に研究室を作る。父から生活費を貰いつつましい生活を送る。
1760年(29才)王立協会の会員になる。死去するまで会員。発表論文は18本、大部分が未発表。
協会の会合には毎週欠かさず出席。極端に内気な正確。人が話しかけても返事がない。興味のある話の時は別。
▼1766年(35才)亜鉛・鉄・スズに硫酸あるいは塩酸を加えると、可燃性の気体(水素)が発生すると論文発表。
▼1781年(50才)ジョセフ・プリーストリーが水素と空気を混ぜて爆発させると水が得られる実験結果を報告。
1783年(52才)父が死去。財産を相続しても生活ぶりには変化なし。「科学者の中で一番の金持ち、金持ちの中で最も偉大な科学者」と言われる。
1784年(53才)ジョセフ・プリーストリーの実験を追試した結果、酸素と水素が化合して水になり体積は5分の1になると報告。
▼1810年(79才)死去。「ニュートンの死以来、キャヴェンディッシュの死ほどイギリスが大きな損失を被ったことはない」と言われた。
▼1839年(死去後29年)遺産を引き継いだデヴォンシャー公が未発表の実験記録と論文を公表。
1874年(死去後64年)デヴォンシャー公がキャヴェンディッシュ研究所を設立。ジェームズ・クラーク・マクスウェルさんが所長に就任、キャベンディッシュさんの原稿から実験を再現。
1879年(死去後69年)『ヘンリー・キャヴェンディシュ電気学論文集』として刊行。キャヴェンディッシュさんの電気に関する研究の全体像と先進性が明らかになった。

https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Cavendish
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5

When Did We Discover that Hydrogen Produces Water when Burned? | Earth Lab

子供時代の学び方 W・C・レントゲン 高校運は最悪、大学で運が拓ける

レントゲンさんはレントゲン写真を発明した人物。高校退学の憂き目にあう。大学では認めてくれる先生と出会い頑張れた。50才のときX線を発見。X線写真の初の被写体は奥さんの手。本人はレントゲン写真と言われるのが嫌で、そのたびにX線写真!と訂正していた。ノーベル賞の第一回受賞者。

ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン Wilhelm Conrad Röntgen  1845–1923
ドイツの物理学者

1845年、裕福な商人のドイツ人の父とオランダ人の母の一人息子としてドイツで生まれる。3才で母の実家があるオランダに移住、成長。
1862-65年(17-19才)オランダ・ユトレヒト工業高等学校2年の途中、トラブルのため本人は悪くないのに不当退学させられる。
1865年(19才)高校卒業資格がないままNetherlandsの大学の聴講生。通常であれば必要な資格証明書がないままユトレヒト大学に入学を申し込む。面接の結果、チューリッヒ工科大学の受験資格ありと認められる。入試の結果、見事合格、入学して機械工学を学ぶ。評価してくれるアウグスト・クント先生に師事。
1869年(24才)チューリッヒ大学でPhDを取得
1870年(25才)クント先生がヴュルツブルク大学の教授になり助手となる
1872年(27才)クント先生がストラスブール大学に転任、助手を続ける。独立して実験を始める。
1874年(29才)大学教授資格を得る。ストラスブール大で助教授になり実験を重ねる。気体や液体の圧縮率、旋光度などに関して15本の論文を発表。
1879年(34才)実績が評価されギーセン大学の物理学の正教授に就任、光学や電磁気学に関する研究を継続。
1888年(43才)ヴュルツブルク大学に戻り教授に就任。
1894年(49才)学長に就任。
1895年(50才)放電管の実験を10月に始め、11月にX線を発見。X線と名付けたのは正体不明だったから。7週間昼夜を分かたず実験を重ねて活用方法を探求した後、奥さんの手をX線撮影した。焦点がボケた写真を見て、奥さんは「I have seen my death!」と叫んだ(無理もない) 後日、友人の手で焦点が合ったX線写真を撮り直した。
1900-20年(55-75才)ミュンヘン大学の実験物理学主任教授に就任。
1912年(57才)同僚のマックス・フォン・ラウエさんがX線の回折像を撮影しX線が電磁波であると証明。
1901年(56才)第1回ノーベル物理学賞受賞。賞金はヴュルツブルク大学に全額寄付

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%B2%E3%83%B3
https://en.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_R%C3%B6ntgen

The Cure – Medical Pioneer: Wilhelm Roentgen

子供時代の学び方 E・フォン・ジーメンス 経済的事情で入った技術学校で才能が開花

電機・通信企業シーメンスの創業者であるエルンスト・ジーメンスは子供時代、家庭の経済的事情で希望の技術学校に進学できなかった。代わりに軍の技術将校養成学校に入る。ここですぐ能力を発揮、色んな優秀メダルを獲得。ドイツ電気工学の父になる道を歩み始める。

Ernst Werner von Siemens エルンスト・ヴェルナー・フォン・ジーメンス 1816–1892
▼ドイツのハノーバーで1384年以来小作農を営むジーメンス家の14人兄弟の4番目として誕生。学校卒業後はベルリンのバウアカデミーへ進学を希望していた。しかし、経済的理由のため断念。
1835-1838年(19-22才)プロシア陸軍の砲兵技術アカデミーに入り技術将校になる教育を受ける。優れた学生に授与される色んなメダルを獲得している。そのひとつに電気式水雷があり、デンマーク・キール海上封鎖戦に使われた。除隊後、家に戻って以前から着想していた技術の具体化に取り組む。
1843年(27才)初めての発明はイングランドの実業家に売却。次にモールス信号の代わりになる電信=文字の列から該当の文字を針が示す電信=を発明。
1847年(31才)電信読み取り機でTelegraphen-Bauanstalt von Siemens & Halskeを技術者のハルスケ氏と共同創業。現在のジーメンスの始まり。
1866年(50才)ダイナモを発明。
1877年(61才)電流を振動に変換するコイルの特許を取得。1920年代になってベル電話会社の関連会社がこの発明を使ってダイナミック・スピーカーを発明。
1879年(63才、電気機関車を実用化。
1880年(64才)世界初の電気式エレベーターを開発。
1882年(66才) トロリーバスを発明。

https://en.wikipedia.org/wiki/Werner_von_Siemens
https://en.wikipedia.org/wiki/Siemens
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PIONIERE DER INDUSTRIE : WERNER v. SIEMENS