リーゼ・マイトナーさんの甥、オットー・フリッシュさんの自伝に出てくる科学者(22)原子のモデルを前進させた:E・シュレディンガーさん

▼フリッシュさんの自伝では「シュレディンガーの方程式は原子の新しいモデルであり、電子は軌道を回る小惑星というよりも、いまや脈動する雲のようなものに似ていた」(p.31)と書いてある。この「脈動する雲」が分かりにくさの象徴的表現。原子核の周りを電子が軌道に乗って回っているモデルから離れられない理由でもある。
▼フリッシュさんはシュレディンガーさんの講義の語り口について「私に、教室のベンチから飛び上がって喝采を送りたいと思わせた唯一の講師」と記している(p.32)
▼Wikipediaの写真からは、難しそうな人物というイメージがある。しかし、当時の大学教授が暑い日でも威厳を示す姿で講義をしていたとき、シュレディンガーさんは開襟シャツと使い古しのテニスシューズで講義をしていた(p.32)。著者によるスナップ写真からも検索して見つかる写真にはない親しみが伝わってくる。

エルヴィン・シュレディンガー Erwin Schrödinger 1887-1961
18877年、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン生まれ。父は企業家、植物学者。
教育
ギムナジウムで自然科学、古典言語、ドイツの詩、ドイツ哲学者を学ぶ。
1906年(19才)ウィーン大学に入学。物理学を専攻。ボルツマンさんがうつ病で自殺、後任がフリードリヒ・ハーゼノール先生。
1910年(23才)ウィーン大学で博士(指導教員はハーゼノール先生)。
活動
1911年(24才)ウィーン大学物理学研究室 Franz S. Exner (1849–1926)先生の助手。ショーペンハウエルの哲学に傾倒。
1914年(27才)WWI。オーストリア軍で砲兵部隊の将校。
1915年(28才)ハーゼノール先生が戦死。
1918年(31才)WWI終戦
1920年(33才)結婚。フリードリヒ・シラー大学イェーナで物理学者マックス・ヴィーン先生の助手。シュトゥットガルト大学の准教授。
1921年(34才)ブレスラウ大学(現在はヴロツワフ大学)で教授。スイスのチューリッヒ大学でマックス・フォン・ラウエさんの後任として教授(数理物理学)(1927年まで)。化学者ピーター・デバイ先生、数学者ヘルマン・ワイルさんと交流。
1925年(38才)ド・ブロイさんの物質波の考えからシュレーディンガー方程式を導く。
1927年(40才)フンボルト大学ベルリンで(マックス・プランクさんの後任)教授。
1933年(46才)ナチスのユダヤ人学者の弾圧に反対してベルリン大学を辞職。オックスフォード大学でフェロー。ポール・ディラックさんとノーベル物理学賞受賞(新形式の原子理論の発見)
1934年(47才)プリンストン大学で講義。
1935年(48才)「シュレーディンガーの猫」の思考実験を提唱。
1936年(49才)オーストリアのグラーツ大学で教授。
1937年(50才)マックス・プランク・メダル授与。
1938年(51才)ナチスドイツがオーストリアを併合。グラーツ大学の教授職を解任。
1939年(52才)WWII。夫妻でダブリンに亡命、ダブリン高等研究所で研究。
1943年(56才)ダブリンのトリニティ・カレッジで講演。
1944年(57才)『生命とは何か』を発表。
1945年(58才)WWII終戦
1948年(61才)アイルランドで市民権。
1952年(65才)『科学とヒューマニズム』を発表。
1955年(68才)ダブリン高等研究所を定年退職。
1956年(69才)オーストリアに帰国しウィーン大学で教授。
1958年(71才)『精神と物質』を発表。
1961年(74才)ウィーンで死去。

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L・マイトナーさんと同時代の科学者(22) E・シュレーディンガーさん

※オットー・フリッシュ著 松田文夫訳「何と少ししか覚えていないことだろう-原子と戦争の時代を生きて-」吉岡書店、2003年。