リーゼ・マイトナーさんと世紀末ウィーン(7) J・シュトラウス2世さん

▼ワルツ『春の声』はマイトナーさんが4才の時にシュトラウス2世さんが作った曲なんだ、と思うと、マイトナーさんは何ともすごい時代のすごい町に生まれたんだと頭がクラクラする。
▼シュトラウス2世さんの親父はデタラメな人。母親の応援で救われる幼年、少年時代を過ごす。この時代のウィーンでのピアノやヴァイオリンなどの楽器と住民の関係は現代では推し量れないほど生活の中にあったようだ。
▼お金の話でいうと、ウィーンよりロシアのほうがずっと報酬が良かった。ロシア宮廷の報酬で財を成せた。音楽で食っていくのは当時も今も大変というのは変わらない。
▼マイトナーさんは化学の最新知識はベルリンにあり、と考えてウィーンを出た。経済もロシアに比べ大したことがなく、化学もベルリンより遅れていたウィーン。にしても、なぜウィーンはウィーンなの?

ヨハン・シュトラウス2世 Johann Strauss II. 1825-1899 作曲家
1825年、ウィーン生まれ。作曲家ヨハン・シュトラウス1世の長男。
父は子供が生活が不安定な音楽家になるのは反対、銀行家を望む。ウィーンの家庭の常識だったピアノは許す。
教育
1830年(5才)36小節のワルツを作曲。母が譜面にして『最初の着想』と命名。
1833年(8才)近所の子供にピアノを教え、レッスン代でヴァイオリンを購入。父のマネをして演奏。しかし父に見つかり叩き壊され、体から音楽を叩き出すと言って体罰を受ける。母はすぐ新しいヴァイオリンを買い与える。父の楽団のヴァイオリニスト、フランツ・アモンさんにレッスンを受けているのがバレ、アモンさんは楽団をクビになる。
1841年(16才)ショッテン・ギムナジウム卒業。
1842年(17才)音楽に専念すると決意。教会のオルガン奏者ヨーゼフ・ドレクスラー先生について楽典を学ぶ(独学の父親と対照的)。
活動
1844年(19才)デビューコンサートの準備を開始。息子をライバル視する父が徹底的に妨害。妨害にめげず演奏会を成功させる。
1845年(20才)母が父と離婚。
1846年(21才)親子で作曲で競争(47年まで)。
1848年(23才)ウィーンで1848年革命が起こる。時流の流れに乗って『革命行進曲』『学生行進曲』『自由の歌』当局からにらまれる。『皇帝フランツ=ヨーゼフ行進曲』を作曲。
1849年(24才)父が死去。父が務めていた宮廷舞踏会音楽監督の役職は前年の行動が宮廷に嫌われて引継げず。父の楽団を引き取り、毎晩、舞踏場やレストランを回って演奏。各会場に楽団員を置いたので200名ほどになる。
1850年(25才)過労のため倒れる。
1851年(26才)フランツ・ヨーゼフ1世の式典にカドリーユ『万歳!』を作曲、献呈。
1852年(27才)宮廷の怒りが3年経つうちに薄れ、謝肉祭で宮廷のダンスの指揮を任される。
1853年(28才)『皇帝フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』『ミルテの花冠』。多忙が続くため、母の提案で弟ヨーゼフに代役指揮をやらせ負担を軽くする。様々の団体から行事があるごとに作曲の依頼が来るので多忙さは変わらず。しかし、お金にはならない。ウィーンは規模も小さくマーケットとしてのうまみに欠けていた。
1856年(31才)経済状態を改善するためロシアの鉄道会社と契約。夏シーズンはパヴロフスク駅舎で演奏会を指揮。報酬が破格で楽団も生活も潤う。ロシア宮廷では大事にされ、皇帝と親しく交流。戴冠式や祝賀行事に招待されるまでになる。
1859年(34才)パヴロフスクでの演奏契約更新。報酬UP。1年の半分をロシアで過ごすようになる。
1863年(38才)宮廷舞踏会音楽監督を獲得。
1865年(40才)パヴロフスクでの演奏契約更新。契約金が56年に比べ倍にUP。このおかげで財を成すことができた。
1867年(42才)『美しく青きドナウ』
1868年(43才)『ウィーンの森の物語』
1869年(44才)パヴロフスクで演奏会。
1870年(45才)母、弟ヨーゼフ、叔母が次々に死去。精神的に参る。妻や友人が元気づけにオペレッタの作曲を勧める。
1871年(46才)作曲に専念するため、宮廷舞踏会音楽監督の地位を末弟エドゥアルトに譲る。オペレッタ『インディゴと40人の盗賊』が完成。初演成功。
1872年(47才)アメリカ独立100周年祝典『世界平和記念祭』『国際音楽祭』で『美しく青きドナウ』を指揮。2万人の演奏者と歌手、100人の副指揮者の総指揮。ボストンとニューヨークで実施。
1874年(49才)オペレッタ『こうもり』
1882年(57才)『春の声』
1883年(58才)オペレッタ『ヴェネチアの一夜』
1885年(60才)オペレッタ『ジプシー男爵』
1886年(61才)パヴロフスクで演奏会。
1889年(64才)『皇帝円舞曲』
1894年(69才)ウィーンで音楽家生活50周年の祝賀行事。
1899年(74才)死去。

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