L・マイトナーさんと同時代の科学者(20) W・パウリさん

▼パウリさんはハイゼンベルクさんと年齢が一つ違い、大学では同じ指導教員ゾンマーフェルト先生の門下生。
▼1930年、パウリさんはベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所で放射性物質の研究を進めていたマイトナーさんに「親愛なる放射性紳士淑女の皆様」という書き出しで始まる書簡を送っている。この書き方が愉快だ。パウリさんは論文より書簡で重要な発見や理論について語るのを好んでいたためだ。手紙の内容は、放射性元素が崩壊するときのメカニズムを理論的に説明するものだった。
▼その8年後、マイトナーさんはベルリンを命からがら脱出する。ベルリンにいるハーンさんとシュトラスマンさんはウランの原子核に中性子を照射する実験を続けていた。すると二人では説明できない実験結果が出た。そこで二人はマイトナーさんに理由を尋ねる手紙を出す。手紙を見たマイトナーさんは実験結果の意味することを甥の物理学者フリッシュさんと読み解く。そして、核分裂が起きていると判断する。パウリさんの理論的予言と今回の実験の関係が伺える例だ。
▼パウリさんは実験が下手でよく装置を壊していたとか、近づくだけで装置が壊れることを同僚がパウリ効果と呼んだとか、愉快なエピソードがある人。超優秀なのにこういうエピソードがあると、がぜん親しみが湧く。

ヴォルフガング・エルンスト・パウリ Wolfgang Ernst Pauli 1900–1958 物理学者。

1900年、ウィーン生まれ。父方がユダヤ系。
教育
1914年(14才)WWI
1918年(18才)WWI終戦。ウィーンのドブリンガー・ギムナジウムを卒業。
1921年(20才)ミュンヘン大学で博士。水素分子イオンの量子論。指導教員はアルノルト・ゾンマーフェルト先生。
活動
1921年(21才)ゲッティンゲン大学でマックス・ボルン先生の助手。
1922年(22才)コペンハーゲン大学の理論物理学研究所(ニールス・ボーア研究所)で研究。
1923年(23才)ハンブルク大学の講師(28年まで)。量子力学の理論構築。
1924年(24才)同じ量子状態には2個以上の電子が存在できないパウリの排他原理を提案。
1926年(26才)ハイゼンベルクさん(9月30日)が行列力学を発表。パウリさんはこの理論で水素原子のスペクトルを理論的に説明。
1927年(27才)スピン演算子の基底にパウリ行列を導入。この結果にポール・ディラックさんが影響を受ける。
1928年(28才)スイス、チューリッヒ連邦工科大学で教授(理論物理学)。
1929年(29才)ローマ・カトリック教会を脱退。
1930年(30才)放射性同位元素の原子核崩壊によって中性粒子が発生すると予言する手紙をリーゼ・マイトナーさん(52才)らに送る。
1931年(31才)精神に不調を来たしカール・ユング先生に診察してもらう。ユング先生の理論を理解・発展。
渡米し、ミシガン大学の客員教授。
1932年(32才)ユング先生と書簡のやりとりが始まる(58年まで)。のちに「原子と原型:1932 – 1958」という本になる。
1934年(34才)パウリさんが提唱した中性粒子にフェルミさん(9月14日)がニュートリノ(59年に観測)と名付けて論文発表。
1935年(35才)プリンストン高等研究所IAS。
1938年(38才)ドイツがオーストリアを併合。
1939年(39才)WWII
1940年(40才)アメリカに移住。プリンストン大学の教授(理論物理学)。スピン統計定理を証明。
1945年(45才)WWII終戦。パウリの排他原理の功績によりノーベル物理学賞を受賞。
1946年(46才)アメリカ市民にならず、チューリッヒに戻る。
1958年(58才)死去。

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