マイトナーさんと同時代の科学者(19) W・ハイゼンベルクさん

▼「L・マイトナーさんの歩みに影響した人物」は18回で一段落したので、これからはマイトナーさんと直接会ったかどうかは定かでないけれども、同時代を生きた科学者を見てゆく。
▼ハイゼンベルクさんはドイツ人。量子力学の開拓者のひとり。31才でノーベル物理学賞を受賞。ナチスの台頭にもかかわらず、不利な道を選び、実際不利になることがあってもへこたれず、嵐の後の晴天を経験できた才能と運と人に恵まれた理論物理学者。
▼マイトナーさん(1878-1968)との年齢差は23。
▼WWIIの間、ナチスSSからは「白いユダヤ人」と呼ばれ、反ユダヤ主義の物理学者から圧迫された。にもかかわらず、ドイツの原爆開発プロジェクトに組み込まれ、重水製造などを進める。そのため連合国から命を狙われる。資金不足、人材不足のため結果的にナチスが原爆を持つことはできなかった。核分裂はエネルギー確保のために利用するべきで爆弾にするべきではない、という考え方の持ち主。

ウェルナー・ハイゼンベルク Werner Karl Heisenberg 1901-1976 理論物理学者
1901年、ドイツのバイエルン州生まれ。
教育
1914年(13才)WWI。
1916年(15才)10代後半はプラトンの『ティマイオス』をネタに友人や先生と哲学対話をする。ピアノ演奏に長じる。
1918年(17才)WWI終戦
1920年(19才)ミュンヘン大学で Arnold Sommerfeld先生と Wilhelm Wien先生に学ぶ。ゴッチンゲン大学で マックス・ボルン先生に量子力学を、 J・フランク先生(9月17日)に物理を、D・ヒルベルト先生に数学を学ぶ。
1922年(21才)ハイゼンベルクさんの原子物理学への関心を知っていたSommerfeld先生はゴッチンゲンで開催されたニールス・ボーアさんの講演に参加させる。この講演での出会いが後の進路に影響する。
1923年(22才)ミュンヘン大学で博士。指導教員は Sommerfeld先生。
1924年(23才)ゴッチンゲン大学で教授資格。指導教員は マックス・ボルン先生.
活動
1924年(23才)ゴッチンゲン大学でポスドク(27年まで)。
ロックフェラー奨学金を得てコペンハーゲン大学理論物理学研究所のボーア先生の元で研究。
1925年(24才)研究結果を論文にして発表。
1926年(25才)コペンハーゲン大学でボーア先生の助手。
1927年(26才)不確定性原理に取り組む。W・パウリ先生に原理を述べた報告を書く。
1928年(27才)ライプニッツ大学の教授(理論物理学)の就任講義を行う。物理学科の学科長を兼任。
1928年(27才)イギリスの数学物理学者Paul Diracさんが positrons陽電子 の概念を提唱。
1932年(31才)ノーベル物理学賞を受賞。James Chadwick さんがニュートロンを発見。アメリカの物理学者 Carl David Anderson さんが霧箱でpositronによる軌跡の写真撮影に成功。
1933年(32才)ナチスが力を持ち始める。反ユダヤ主義の物理学者やSSから「白いユダヤ人」と批判、Sommerfeld先生と共に圧迫を受ける。陽電子とディラクさんの論を発展させ量子力学の元になる論文を2本発表。
1938年(37才)ハーンさん、シュトラスマンさん、マイトナーさん(そしてフェリッシュさん)が核分裂の研究成果を出す。
1939年(38才)渡米しミシガン大学を訪問、Samuel Goudsmitさんに移民を進められるも断る。WWII
1942年(41才)カイザー・ヴィルヘルム協会の研究所所長、教授になる。ドイツ軍備大臣に45年までに原子爆弾を製造するのは資金・人材不足の理由で困難とレポート
1943年(42才)ベルリンフンボルト大学の理論物理学部長。ベルリン空爆が激しさを増すので郊外の森やポーランドに避難。ドイツ軍がコペンハーゲンのN・ボーア研究所を接収。
1945年(44才)WWII終戦。イギリスのドイツ人科学者施設に収容される。
1946年(45才)マックス・プランク物理学研究所の所長(70年まで)。
1953年(52才)欧州原子核研究機構CERNの創設に貢献。
1976年(75才)死去。

https://en.wikipedia.org/wiki/Werner_Heisenberg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF